「艮の金神は筆先によって世にあらわれる」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “お筆先を読むものは、所謂(いはゆる)変性(へんじょう)男子(なんし)を読むものなり、(うしとら)(こん)(じん)を読むものなり、出口の加美(かみ)を読むものなり。筆先には神のすべての心と、すべての行ひとを漏らさず載せられたればなり。

 神の御心と変性男子の身魂を知らんとするものは、筆先を調ぶるに()くものなし。筆先は艮の金神出口の加美の生ける御姿なり。故に艮の金神は、筆先にて世に顕はると宜り給へり。

 天地を守り給ふ神の御心、万物を造り玉へる神の働きなぞ、ありありと伺ひ奉ることを得可きなり。

 此の筆先によりて救ひの道も明らかになり、滅ぶる世も、栄ゆるなり。真実(まこと)に此の世の宝と讃へ得可きなり。(明治三七年一月八日)”

 

         (「神霊界」大正10年3月号 出口王仁三郎『筆の滴』より)

 

*変性男子(へんじょうなんし)出口ナオ開祖は、「『お筆先』の一つ一つの文字には神様が宿っておられ、それは筆写されたものでも同様である」と言われています。また変性女子(へんじょうにょし)出口王仁三郎聖師も、「霊界物語の中にわしの霊がすべて入っている」、「一文字一文字すべてが金玉(きんぎょく)の文字である」と言われています。さらに、聖師は「霊界物語を他の小説などと一緒にしてはいかん」、「人が踏むような畳の上に置いてはならぬ」とも言っておられ、これらの御発言から考えるに「お筆先」と「霊界物語」は、共に御神体と同じようにみなされるべきだと思います。どの宗教にもそれぞれの聖典があるわけですが、聖典を常に拝読することは、それがそのまま神様への礼拝であり、同時に聞き手は神さまからの内流を受けることができるのであって、これが全ての宗教において聖典の読誦、朗読が強調される理由です。なお、これはお筆先で示され、かつ出口聖師も言っておられたことですが、艮の金神・国祖国常立尊は、出口ナオ開祖、出口王仁三郎聖師の御二人にしか懸かられません。出口すみ子二代教主ですら、艮の金神様の声を聞かれたり夢で視られたりすることはありましたが、直接肉体に懸かられるということはありませんでした。

 

・聖書の一つ一つの言葉に全部の聖書が含まれている  (あるカトリック信徒の体験)

 

  “ミサにあずかっているとき、聖書をくまなく読もうという考えが頭から離れませんでした。それが正当な義務で、多分奉献のときに主にそれを捧げようという意図があったのだと思います。私に先がけて主は仰せになりました。

 「聖書の一つ一つの言葉は全部の聖書を含んでいる。」

 その言葉は、深く私の中におりてきたので、私は感銘を受けました。感銘を受けたのですが、わけもわからずに感銘を受けたのです。

 最初の、「一つ一つ」という言葉、つまり聖書の「一つ一つ」という言葉に私は大へん感動したのです。でも、どのように?私は理解できませんでした。わからなければわからないほど、私の中でその「一つ一つ」が気になりはじめ、大変短い言葉にまでこだわり、しまいには私の理性の前では一つの小さな「そして」という接続詞までも考え込むようになってしまっていたのです。

 ただの一つの「そして」という言葉が、救いのすべてのメッセージを含んでおり、イエズスが話された全部のたとえ話に全部の意味があるのだと自分に言い聞かせたとき、その言葉は私の頭に焼き付いてしまったのです。

 私の能力では理解できるものではありませんでした。考えに考え抜いたのですが、私の理性は全くの闇でした。(中略)“

 

 “ミサ中、正確に言えば奉献のときの聖体奉挙を仰ごうと目を上げたとき、ホスティアから霊的光のようなものが私の心の中に差し込んできたのです。何の教えもなく一瞬のうちに、すべてが明らかとなりました。主よ、あなたは何と偉大な方なのでしょう。今なら私もよくわかります。ありがとう、主よ……。 

 何が起こったのでしょうか。はっきりと、一つ一つの言葉が真理だというのが見えたのです。ご聖体は私の頭を悩ませていた、どうにも説明のできないすばらしい言葉の理解の鍵となりました。ご聖体は、イエズスが私たちにご自分を与える手段であり、み言葉は、神が人に恩恵を流す手段なのです。

 こうしてみると、聖書の一つ一つの言葉は別個に切り離して解釈するものではなく、その背景には創造主と被造物の一致を実現する目的があるということなのです。神からくるご聖体とみ言葉は、無限の主の善に開こうとする人には、主のご自分を与える道だということに私は気づいたのです。

 聖書の一つの言葉、一つの句読点、一つの区切りに、何度私は深く考えるように誘いを受けた印象を持ったことでしょう。

 聖書に書かれている接続詞の「そして」という小さな言葉の中に、主の譬えの全部の意味があるということを考えて、私は人間的な答えを探し続けていました。そして主は別な方法で解答を与えられました。主にとってはあきらかに、私たちの知識が人間的に一杯になることには関心がないのです。主にとってたいせつなことは一致なのです。ご聖体と生きたキリストの生活からくる体験による主とのふれあいによる知識なのです。これこそがいのちを与える知識なのです。つまり生きること、経験すること……これはただの理解ではないのです。心で理解することなのです。

 この「理解すること」は、主に私たちの心を開き、信頼深く私たちを主に委ね、注意深く主の言葉を聞くときにはじめていただけるのです。”

 

   (サンドラ・ニョッキ「神さまの声が聞こえる おん父のすばらしいご計画」燐葉出版社より)