「うそでつくねた世」 マーヤー(幻影)の世界 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “まえの天照皇大神宮どののおり、岩戸へおはいりになりたのを、だまして無理にひっぱり出して、この世は勇みたらよいものと、それからは天の宇豆売命(あめのうずめのみこと)どののうそが手柄となりて、この世がうそでつくねた世であるから、神にまことがないゆえに、人民が悪くなるばかり”(明治三八年旧四月二六日)(「大本神諭」第四集)

 

 “天の岩戸の鍵をにぎれるものは瑞の御霊(みづのみたま)なり。岩戸の中には厳の御霊(いづのみたま)かくれませり。天の岩戸開けなば、二つの御霊そろうてこの世を守りたまわん。さすれば天下はいつまでも穏やかとなるべし。”(出口王仁三郎「道のしおり」第三巻上)

 

 

・「マーヤーとは」  パラマハンサ・ヨガナンダ

 

 “マーヤーは、神の創造活動における魔術的な力、すなわち宇宙的幻影を創り出す力で、これによって、本来一体で無限のものが、個々別々の有限なものとして存在するように現れる。語源は『測る』『区分する』等の意。

 エマーソンは、「マーヤー」という題で次のような詩を書いている。

 

  幻影の魔力は

  無数の織布もてその正体をくらます

  華麗なるその模様は

  入り混じり打ち重なりて

  尽きるところを知らず

  魔術師は

  だまされんと欲する人の

  信ずるところとなる”

 

    (パラマハンサ・ヨガナンダ「あるヨギの自叙伝」(森北出版)より)

 

 

・聖ラーマ・クリシュナの伝記から

 “ラーマクリシュナは無分別三昧によって、ブラフマンとカーリーが一体であることを大悟したのである。ブラフマンとカーリー即ち造化力(シャクティ)との関係は、「火」と「燃える力」のようなもの。牛乳と牛乳の白さのようなもの。離れては存在し得ない。蜘蛛は自らの体内から糸を出して網を張り、そこに住んでいる。カーリーは宇宙を吐き出し、また吸い込む。彼女は自ら宇宙となり、あらゆる生物となって現われ、永遠に遊戯(リーラー)する。彼女の遊戯(リーラー)は、現象(マーヤー)は、千差万別一つとして同じものはなく、千変万下一ときも休みなく活動している。解脱した魂―― 見真した聖者でも、肉体を持っているかぎり、わずかでも「我(アハン)」の意識がある限り、この相対界の女帝、カーリーの支配下にある。”

 

 “「‥‥‥実在(それ)を不動のものとして考えるとき、わたしはそれをブラフマン(梵)と言い、またプルシャ(神我)、無人格的神と名づける。それが創造し、保存し、破壊する―― すなわち活動すると考えるとき、造化力(シャクティ)、現象(マーヤー)、またはプラクリティ(原自然、大生命力)、人格神と名づける。一方なくして他方を考えることはできない。無人格的なものと人格的なものは同じ実在であり、たとえば乳とその白さ、ダイヤモンドとその輝き、蛇とそのうねりのようなもの。宇宙の大実母とブラフマンは一つである」”

 

 “人間の体には、背骨に沿って七つの霊的中心(チャクラ)がある。一番下の、尾骶骨のあたりにあるムーラダーラ・チャクラには、クンダリニーとよぶ霊的エネルギーが、蛇のようにトグロを巻いて眠っている。信仰や、瞑想などの修行によって目覚めたクンダリニーは、丹田(スワディスタナ)、へそ(マニプラ)、心臓(アナハタ)、喉(ビシュダ)、眉間(アジナ)のチャクラに次々と上昇し、ついに頭頂にあるサハスラーラ・チャクラに達する。すると人は三昧(サマーディー)に入る。これが大悟の境地である。(中略)

 クンダリニーが目覚めない―― つまり、霊的に目覚めないうちは、人間は種族保存本能と個体保存本能(性欲と物欲)のおもむくままに、無明の森のなかを、どうどうめぐりしながら這いずりまわっているのだ。ラーマクリシュナは、「霊的に目覚めてこそ、真の人間だ」と言っている。そして、地面(動物の生活)を離れて、上(神)に向かってどこまでも前進しろ、と、くりかえし語り続けた。

 ヨーガとは本来、明日滅びるかもしれない肉体のための健康法でも美容法でもなく、神人合一、梵我一如の境地のこと。また、そこへ到る道のことをいう。その行者をヨーギと呼ぶ。釈迦もラーマクリシュナも、偉大なるヨーギなのである。”

 

    (田中嫺玉「インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯」(ブイツーソリューション)より)

*田中嫺玉さんが書かれた聖者ラーマ・クリシュナの伝記「インドの光」は、これまで三学出版や中公文庫からも出版されましたが、このブイツーソリューション発行(発売:星雲社)のものが、貴重な写真が数多く載せられており、一番お勧めだと思います。また、同じく田中嫺玉さんが翻訳された「不滅の言葉(コタムリト)」全五巻(ベンガル語原典訳)、「マハーバーラタ 上・中・下巻」(第三文明社)なども素晴らしい本です。

 

〔聖者ラーマ・クリシュナが崇拝した、ドッキネッショル寺院(カルカッタ)のカーリー女神像〕

 

*女神カーリーは、大神シヴァの妃であり、しばしば熟睡中のシヴァ(ブラフマン)の上で踊り狂う姿(シャクティ)で描かれます。

 

・スワミ・ブラマーナンダ 

 

 “心と感覚に、神を経験したいという願いを起こさせないようにするのは、マーヤーだ。しかし神をさとった人は、マーヤーの全ての魔力や魅力を超越してしまっている。マーヤーを超越してしまった人にだけ、マーヤーは彼女の神秘を示すのだ。

 マーヤーに縛りつけられているものだから、人は、生死の輪廻に巻き込まれてぐるぐると廻っている自分の苦痛がどれ程のものであるかを理解しないのだ。人が自分の誕生の目的である神聖な使命を忘れてマーヤーの中で眠っている間にも、かれの肉体は日一日と朽ちて行く。他の全ての生きものに優る、この人間への誕生の唯一独特の利点は、人だけが神を悟ることができる、ということである。それだから、肉体とその安楽は忘れたまえ。生死というまどわしは振り払え。マーヤーの幻の平安は振り捨てて、真の平安―― 永続する神の平安 ――を見出したまえ。”

 

 “かつてマハーラージがホーリーマザーを訪ねたとき、あるシュリ・ラーマクリシュナの女弟子が、「ラーカール、なぜ求道者はまず最初に母なる神を礼拝しなければならないのか、マザーがあなたからききたいとおっしゃいました」と言った。

 マハーラージは答えた。「母はブラフマンの知識への鍵をお持ちです。彼女がお慈悲を示して扉をあけて下さるのでなければ、誰もブラフマンの王国には入れないのでございます」”

 

  (「永遠の伴侶 スワミ・ブラマーナンダの生涯と教え」(日本ヴェーダーンタ協会)より)

*文中の「マハーラージ」、「ラーカール」とは、インドの聖者ラーマ・クリシュナの高弟であり、ラーマクリシュナ・ミッションの初代僧院長であった、スワミ・ブラマーナンダ(本名:ラーカール・チャンドラ・ゴーシュ)のことで、「ホーリーマザー」とは、ラーマ・クリシュナの妻で、弟子たちから聖なる母と敬われた「シュリ・サラダー・デビィ」のことです。スワミ・ブラマーナンダは、霊性の修行として、特にジャパム(称名)の重要性を強調されています。

 

 

・「アダムは今も眠り続けている」

 

 “‥‥‥禅には覚醒が必要である。静寂を聴くには、目覚めていなければならない。完全に目覚めていない者は、雑音の不在を聴くにすぎない・・・静かでないときに聞こえるような物音がないのを聞くだけ、つまりたんにネガティブなものでしかない。

 ルター訳の聖書の天地創造の物語(創世記二章二十一節)にこういう文がある。「そこで主なる神は人のうえに深い眠りを降らしめた。すると彼は眠りこんだ‥‥‥」われわれはこれを大体こういうふうに理解する。人間は眠りに沈められた・・・昔の「麻酔」とでもほとんど言えそうなものだ‥‥‥、それによって神は人間から肋骨を取って、「女Männin」を創ることができた。そのあとでアダムは目覚め、見ると‥‥‥エヴァがいた。

 ところがC・G・ユング、ヴァルター・F・オットー、ハインリッヒ・ツィンマー、その他の神話解釈者たちから、われわれはこう教わった。神話を文字通りにとるべきだ。どこにも、アダムが目を覚ましたとは書かれていない、と。

 つまり、アダムは眠りつづけたのだ。われわれはいまなお眠っている‥‥‥。”

 

        (J・E・ベーレント「世界は音 ナーダ・ブラフマー」(人文書院)より)

 

*リブログ先で紹介させていただいているように、出口聖師は、霊界物語の中で「臍下丹田」と書いて「あまのいはと」とルビを振られています。私は「天の岩戸開き」とは、ヨガやエドガー・ケイシーのリーディングで語られている、人体の霊的中枢(チャクラ、クンダリニー)の覚醒のことではないかと考えています。

 本当はまだ天の岩戸は開いておらず、今の我々は女神の魅惑的な踊り、神の遊戯(リーラー)に惑わされ、マーヤー(宇宙的幻影)を現実と錯覚し続けている状態です。