死者の食べ物 〔ルドルフ・シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “透視的なまなざしで死者の心魂を追っていくと、眠っている人間の心魂が死者のための穀物畑であることが分かります。精神世界を見てみましょう。死と再受肉とのあいだにある人間の心魂が、眠っている人間の心魂へと押し寄せ、眠っている人間の心魂の中にある思考と理念を探しているのを目にすると、驚きどころか、衝撃を感じます。死者は眠っている人間の思考と理念を、養分として必要とするのです。

 「私たちが夜眠ると、起きているあいだに意識の中に生じた理念・思考が生きた存在になる」と、言うことができます。そこに死者の心魂がやってきて、それらの理念に関心をもちます。それらの理念を眺めて、死者は養分を吸収するのです。死者が眠っている人のところに毎夜やって来るのを、透視的に見るのは衝撃的なことです。死者は、友人や親族のところにやってきます。死者は、それらの人々が眠りの中に持ち込んだ思考・理念から、養分を吸収しようとします。しかし、自分の養分になるものを見出せないことが多いのです。

 私たちが一日中、物質的な生活の理念のみに関わり、物質界で行われることにのみ目を向け、眠る前に精神への思考を持たないとします。そうすると、私たちは死者に養分を提供することはできません。

 ヨーロッパのある地方では、大学生が眠るとき、眠気を誘うためにビールを飲む習慣があります。そのようなことをすると、精神界の中に生きることのできない理念を、眠りの中に持ち込むことになります。死者の心魂がやってきて、空虚な畑を見出すことになります。私たちの物質界(肉体)が不作の畑で飢餓に苦しむのと同様のことが、死者の心魂に生じます。現代では、精神世界に心魂的な飢餓がたくさん観察されます。唯物的な感情、感覚が広まっているからです。

 今日では数多くの人々が、「精神世界について思考するのは、子供じみたことだ」と考えています。こうして、死者が得るべき心魂の養分が奪われています。

 この事実を正しく理解するために、「死者は、生きているあいだに何らかの関係があった人々の心魂の中にある理念と思考からのみ養分を得ることができる」ということに、言及しなければなりません。

 死者に養分を与えることのできる、精神的にいきいきしたものを、再び心魂の中に有するために、私たちは今日、精神科学を広めています。私たちは単に生きている人々に理論的な満足を与えるために活動しているわけではありません。私たちと地上で結ばれていた死者が、理念と感受から精神的な養分を吸収しなければならないということを、私たちは知っているので、心魂を精神世界の思考で満たそうと試みているのです。私たちの活動は、単に生きている人々のためだけのものではありません。精神科学的な活動、人智学的(アントロポゾフィー)な生活は、精神世界に奉仕するものでもあるのです。”(P129~P131)

 

 “地球は、いわれなく精神宇宙のなかに存在しているのではありません。地球に生命が与えられたのは、地上でのみ可能なことが生じるためだったのです。精神世界を観照するだけでなく、精神世界についての知識を獲得できるのは、地上でのみ可能なことなのです。

 「精神世界の存在たちは書物を読めない」と。申し上げました。私たちのなかに精神認識として生きているものは、死者および死後の私たちにとって、物質界の人間にとっての本と同じものなのです。本をとおして、物質界の人間は世界について、さまざまなことを知ります。死者にとっては、私たちという生きた存在そのものが書物なのです。

 「私たちは死者のために読書しなければならない」という言葉の重要さを感じてください。私たちが精神世界では目に見えないもの、つまり物質的な思考に充たされていると、死者のための読書の妨げになります。「私たちが死者に与えるものを、死者自身が知ることはできないのか」という質問をしばしば受けるので、このようなことを私は語らねばなりません。死者は自分で知ることができません。精神科学は地上でのみ構築できるもの、地上から精神世界にもたらされるものなのです。”(P140)

 

 “‥‥‥死者は霊的な周囲に存在するものを、地上で精神界について持ちえた思考の容量分しか体験できません。

 「死後の人生のことを心配しても何になるだろうか。私たちは待っていればいいのだ。死んだら、死後の世界がどんなふうか分かる」と言う人がたくさんいます。

 そのような考えは、まったく無意味です。唯物論的に生活し、生きているあいだに精神界について何も考えなかった人は、死後、何も見ることができません。”(P77~P78)

 

 “自分に近しいように思えるものが、自分を精神界に運んでいくのではありません。精神界から現われてくるものが、私たちを精神界に導いていくのです。ですから、今日お話ししたような考えを、心魂のなかにしばしば生かしてみることを躊躇しないでください。精神的なものとの結び付きを確信することが、人生にとって、そして物質的な生活にとっても、最も重要だからです。

 近代の人間が精神的―霊的なものとの関係を失っていなかったならば、現代のように困難な時代は到来しなかったことでしょう。精神的なものとの関係を大切にしているのは、今日ではわずかの人々だけです。将来、その関係が認識されることになるでしょうが、今日では、「人間は死の扉を通過すると、物質界に関する活動を終える」と思われています。そうではありません。死者は活動を止めはしません。いきいきとした交流が、死者と生者とのあいだで続くのです。”(P199)

 

      (ルドルフ・シュタイナー「精神科学から見た死後の生」(風濤社)より)

 

 “‥‥‥一体死者は、霊界で教え諭してくれるような霊的存在を見出すことができないのでしょうか?ええ、見出すことはできないのです。死者は、生前結びつきのあった霊的存在たちとしか関係が持てません。死者がこの世で知ることのなかった神霊や死者たちに出会っても、死者はその存在を素通りしてしまうのです。どんなに役に立ってくれそうな存在に出会っても、生前関係がなかったのでしたら何の役にも立ってくれないのです。(1913年1月21日、ウィーンでの講演)”

 

            (「シュタイナーの死者の書」(ちくま学芸文庫)より)

 

*シュタイナーは、生前に霊的な存在との関わりを持てなければ、死後にそれらの助けを得ることはできない、と言っています。ということは、唯物論者であった人、生前に何の信仰も持っていなかった人は、死後絶望的な状況に居るということになります。ただし、遺族や親しい友人たちの声は霊界のその人のもとに届くそうなので、そこで彼らによる供養、霊的読書が何よりも重要なものとなります。ここでその一部を紹介させていただいた「精神科学から見た死後の生」では、死者との交流や霊的読書について詳しく説明されており、また翻訳者でシュタイナー研究家でもある西川劉範先生は、「編訳者あとがき」のなかで、故人の霊を天界へ送り出すためには、どのような葬式のスタイルがふさわしいかも述べておられます。

 

 

・死者のための霊界物語の拝読

 

 “「霊界物語」の拝読は、私たちのみたまの糧として大事なことはよく判っていますが、また亡くなられた霊にとっても、大事な糧であるという一例を申し上げてみたいと思います。

 綾部へ聖師さまのお供をさしていただいた時の話ですが、聖師さまはいつもお寝みになる時は物語の拝読を聞きながら、お寝みになられるのですが、いつものように山水荘で物語を拝読しておりますと、誰もいるはずの無い二階からトントントントンと下りてくる人の足音がして、衣擦れの音と共に、私の横にチョコンと座る気配が致します。私は“アッ、気持ちが悪い”と思いましたが、“ナーニ聖師さまがおいでになるのだもの、こわいことはない”と思って、物語を読み続けていました。

 終わって見廻しましたが、もちろん誰もいません。聖師さまに「さきほどここに人の座る気配が致しましたが、あれは何だったでしょうか」とお聞きしましたら、「あれは中有界に迷っている霊が物語を聞きにきたのや。物語を聞いて、あれで天国に救われるのや、だからそこらに人がいなくても声を出して読めというのはそのことや」とお教え下さいました。”

 

      (「おほもと」昭和47年10月号 三浦玖仁子『神は見通し聞きとおし』)

*死者の霊魂の救済のために拝読する箇所としては、特に47巻と48巻の天国篇・霊国篇が勧められています。