・「古事記」天岩戸の段より
ここに速須佐の男の命、天照らす大御神に白したまひしく、「我が心清明ければ我が生める子手弱女を得つ。これに因りて言はば、おのづから我勝ちぬ」といひて、勝さびに天照らす大御神の營田の畔離ち、その溝埋み、またその大嘗聞しめす殿に屎まり散らしき。
・天にまします神の排便 (ユングの幻視体験)
「生ける神は教会のくびきに縛られてなどいない」
“ユングは十二歳のとき、決定的な神体験をした。それは次のようであった。ある晴れた日、彼はバーゼルの大聖堂の広場に行き、その光景の見事さに圧倒されて思いにふけるが、そのとき神の偉大さと共に、よこしまな考えが浮かび出ようとし、これは聖霊に対する罪で、絶対に許されることのない最も恐ろしい罪であるので、その考えを懸命に抑え込もうとした。そして「考えちゃいけないんだ!」とかなり興奮して家に帰ったが、この考えが、強迫的に憑きまとって脳裡から離れなくなった。三日目の晩には、その強迫観念に苦しくて耐えられなくなり、彼はいろいろ考え抜いたあげく、地獄の火の中に飛び込むかのような勇気をふるい起して、考えの浮かぶがままに任せた。
すると自分の眼前に青空を背景とした大聖堂が見え、神は地球の上の遥か高い所で玉座に坐っておられ、その玉座の下から夥しい量の排泄物が大聖堂にしたたり落ちて、その屋根や壁を破壊するのであった。
この不敬な幻視体験は、ユングを奈落の絶望感におとしめるどころか、彼は名状しがたい救いをおぼえ、心が軽くなるのを感じた。そして神の恩寵を体験し、かつて経験したことのないほどの幸福感を味わい、感謝の涙を流すのであった。このバーゼル大聖堂の幻視体験は、ユングにとって「生涯の決定的な体験」であったという。
この体験によってユングは、神は聖書と教会を超える存在であり、生ける神は神聖とされてきた伝統さえも拒絶することがある、ということを知った。と同時に神は自身の教会をも汚される方であり、ユングにとって神は恐ろしいものであると感じるようになった。神は一人子イエスを十字架にかける方であり、善人ヨブに苦難を与える神(「ヨブ記」)であり、アブラハムに対して人身御供を命ずる神(「創世記」十二章)であり、大聖堂に排泄物を落とす考えをユングに起こさせるというような、人間を圧倒する恐ろしい神でもある。ユングにとって神は愛と善なる方であると同時に、人間を圧倒し畏敬を起こさせるという二面性を持つ方であった。
大聖堂における体験以後、ユングは「自分がもはや人間の間にはいず、ただ独りで神と共にいるのだという気持ちをしばしばいだくようになった。ところが父や牧師たちは教会に集まり、そこで図々しくも大声で、神の意志や行為について語るが、そこには生きた神の体験が欠けていた。しかしユングが自身の体験によって知りえた神はまさに生ける神であり、たとえ伝統的キリスト教からアウトサイダーとされても、生ける神の確信は強固で不動となったのである。”
(久保田圭俉(桜美林大学教授)『ユングの宗教体験』より)
(「季刊AZ 27号 ユング 現代の神話」新人物往来社に掲載)