ありとしあらゆるものの救いのために | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・戦前の宣伝使たち

 

大津(清) 昔の大先輩たちは救世の使命感に燃えていたな。自分が良くなることを祈る前に、まわりの全てが幸せになる事を願って動かないではおれない、じっとしておれない気持ちだったね。もっとも其の時代の大本は、聖師様のもと大本全体が救世の使命に燃え上がり神政成就、今でいうみろくの世実現を期して、舎身活躍していたものな。「私の守護神が躍動して」という言葉がよく使われたが、腹のどん底から活動せずにはおれなかったものな。大本の神様は三千世界の立て直しのため、御救いのために出現なされた、一日も早く御救いが実現するよう私達は活動せねばー。活動を一日怠って、世界が破滅するような事があれば神様に対して申し訳ない。とそれはみんな一生懸命だった。

 世界が破滅するという危機感は其の頃より今の方がよっぽど激しいのに、それを今の大本信者たちは内輪で争ってばかり、理屈ばかりこねくりまわして右往左往している。

 

    (「愛善世界」№10 『座談会、みろくの世作りに邁進を』より)

 

 

・すべてのものの救いを祈る  〔東方正教会(オーソドックス)〕

 

 “・・・すべての者が復活するようにという祈願は、正教会の高邁な精神の中でも常に変わらぬテーマの一つであった。それは、キリスト教国のうちでも、とくにロシアで大きな共鳴を得た。しかし、多くの悲劇をのりこえ、あるいは《天国の門前でおののく魂》・・・これは聖イサークにとっては、悔い改めを意味していたが・・・にうちかって、キリスト教徒としての生をとりもどすことは容易ではない。すべてのものの復活は、とても確実なものとはいいきれない。だから教会は、この点についてオリゲネス主義を拒否した。しかし、聖霊に満たされた偉大な求道者たちは・・・彼らは目立った存在ではないが、彼らこそ教会の良心である・・・、被造物であるすべての人間の復活を祈り、それに希望を抱いた・・・。《自分だけは滅んでも、みんなは救われますように。》これはアレキサンドリアのある貧しい靴屋が聖アントニウスに言った言葉であるが、この言葉によって、アントニウスは、自分が《第一の罪びと》であることを告白するには、実際にどうしたらよいかを教えられた。以来、正教会では、聖霊に満たされた人たちのあるものは、このように祈っている。地獄は他人のためにではなく、自分のためにある。われわれは福音の言葉におそれおののき、地獄の永遠の勝利者であるキリストの足下にひれ伏す。そして自分以外の人々に対しては、声を大にして、ただひたすらに愛と希望とを祈る。たとえば、19世紀のある《佯狂者》は、死に臨んでつぎのように祈った。

 

 《みんな救われますように!地上のすべてのものが救われますように!》”

 

     (オリヴィエ・クレマン「東方正教会」白水社 文庫クセジュより)

 

*オリゲネス(185頃~254頃)・・・エジプトの教父。彼は最後には信仰を持たない者も、悪魔も、すべてのものが救われるとしたが、教会はこうした思想を認めず、彼を異端とした。

 

*佯狂者(ようきょうしゃ)・・・預言の能力を持つ狂人、もしくは狂人とみせかける苦行者。キリストのためにあらゆる人知を捨て去ることは、ビザンツでも聖性のひとつのありかたとして考えられていた。

 

 

・ありとしあらゆるものの解脱  〔仏教〕

 全世界を解放することが客観的に可能かどうかということは、核心をはずれている。第一に、仏教徒にとっては、「客観的世界」というようなものは存在しないからである。というのもわれわれは、体験の世界についてのみ話すことができるのであり、それは体験する主体と切り離すことはできないのである。第二に、悟りの状態は時間的な状態ではなく、時間の領域を超えた、より高い次元の体験だからである。
 それゆえに、たとえ仏陀シャーキャムニの悟りが人類の歴史のある時点で生じたとしても、それでもわれわれは、悟りの経過をその時点と同一視することはできない。仏陀自身の言葉によれば、彼の意識が過去の無数の世代を貫通したように、同様にして、それは無数の未来の世代をも貫通したのである。言い換えれば、われわれがそれを過去と呼ぶか、未来と呼ぶかにかかわらず、彼にとっては時間の無限性が直接的現在となったのである。
 時間的連続の中で、その出来事の徐々に開示してくる結果としてわれわれに見えているものは、成就された実在として仏陀の心に現存したものである。われわれの日常的な意識の言語で表わされるなら、〈仏陀の心〉の普遍性は、その現存を今日まで感じることができるような、そして、彼が二千五百年前に点火した解脱させる智恵の松明は今なお輝き、その明りを熱望する衆生のいる限り輝き続けるであろうような、そのような偉大な結果を創り出したのである。
 悟りがその実現の途中においても、その達成の後においても、(実際、一切の苦しみの根源である)あらゆる排他性を許さないということは、まさに悟りの本性そのものの中に存するのである。・・・なぜなら、悟りは限定することなく、また使い果たされることなく、他の者がそれに関わることを許しつつ輝いているのである。・・・見るべき目を持ち、その暖かさを感じる感覚を持ち、その生命を与える力を吸収する器官を持つ全てのものに対して、限定することなく光を与える太陽のように。
 そして、ちょうど太陽が宇宙を公平に照らす一方で、さまざまな衆生の上に、それ自身の感受性や資質に応じて異なる仕方で働きかけているように、〈悟った者〉は、・・・一切の衆生を彼の心の中に区別なく抱いているのだけれど・・・全てが同時に解放されうるのではなくて、彼の蒔く悟りの種が、個々それぞれの適時性あるいは成熟に従って、早晩にその果を生じるであろうことを知っている。
 しかし〈悟った者〉にとっては時間は空間と同様に幻影であるので、彼は悟りの至高な体験において、一切の解脱を予期するのである。これは〈仏性〉の普遍性であり、「一切の仕事を成就する〈智恵〉」つまり不空成就如来の〈智恵〉による菩薩の誓願の達成である。
 この〈一切を成就する智恵〉は、心と精神の統合、一切を包含する愛と最深な知識の統合、恐れることのない生命の苦痛の受容の中にその悟りのための力を見出す、人間の努力の最高の理想に向けての完全な自己放棄に存する。というのは、無畏性は不空成就如来の仕種である。
 この姿勢に力づけられ、仏陀の足元において、一切の〈悟った者〉の永遠な現前において、菩薩の誓願を自身に引き受ける者は、タゴールの深く感取された言葉を思い出すかもしれない。すなわち、

  危険から庇護されるためにではなく
  恐れずにそれに立ち向かうために祈らせたまえ
  苦痛の鎮静ではなく
  それに打ち克つ心を乞わせたまえ
  生命の戦場における味方ではなく
  私自身の強さに対する味方を求めさせたまえ
  気懸りな恐怖の中で救われることを切望するのではなく
  自由を勝ち取るための忍耐を望ませたまえ

           SARVAMANGALAM(全てに祝福のあらんことを)!

       (ラマ・アナガリカ・ゴヴィンダ「チベット密教の真理」工作舎より)

 

 

・弘法大師 空海「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きん」

 

 “ここに空海、もろもろの金剛子等と金剛峯寺に於いて聊か万燈万華の会を設けて両部曼荼羅、四印の智印に奉献す。期するところは毎年一度この事を設け奉って四恩に答え奉らん。虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば我が願いも尽きん。(中略)仰ぎ願わくはこの光業によって自他を抜済せん。無明の他たちまちに自明に帰し、本覚の自たちまちに他身を奪はん。無尽の荘厳、大日の恵光を放って刹塵の智印郎月の定照を発せん。六大の遍するところ、五智の含するところ、虚を排い、地に沈み、水を流し林に遊ぶもの、すべてこれ我が四恩なり。同じく共に一覚に入らん。”(「性霊集 補闕抄」『高野山万灯会の願文』より)