終末の予言について | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 豫言のみ好きな信者はともすれば 妖言過言に脱線せるなり  

                        (「歌集 愛善の道」より)

 

 “私自身いまだに深い理解はできておりませんが、霊界物語ご口述にお仕えし、理解させていただいた範囲をお取次いたします。霊界物語は歴史であり、教訓であり、また教祖のお筆先の解説書でもあり、さらに大神劇の脚本でもあります。教祖のお筆先は断片的で、せりふ書きのみであるから、物語によらなければ神界の真相は分からない、と霊界物語の序文に書かれております。

 私の入信当時は、今日のように豊富なご神書類もなく、教祖のお筆先と聖師の論文があるだけで、そのうえ当時は印刷の技術が悪かったのですから、私たちはもっぱらランプの光のもとでお筆先の原本を浄写したものです。ところが先ほど申しましたように、筆先は断片的に書かれてありますから十分に理解ができません。「立替え立直しをいたすぞよ」「早く改心してくだされよ」とお示しがあっても、『立替え立直し』とはいったいどんなことなのか、『改心』とはどうすることなのか、といった調子でさっぱり意味が分からない。ですから当時の信者は思い思いに勝手な解釈をしておりました。

 大正十年の第一次大本事件が起こる前までは、「天地がひっくりかえる」とか「日本もなくなってしまう」それが立替え立直しである、というような解釈をし、また宣伝したわけです。ところが聖師は側近に「そんなばかなことがあるか。そんな立替えだったら誰も生きちゃおらん。みんな死んでしまう。そんな世の中になって何がいい世の中だ。そんな滅茶苦茶なことをしてみろくの世がくるもんか。ばかなことを言うな」と言っておられました。”

 

(「おほもと」昭和52年2月号 大国美都雄『聖師と霊界物語』より)

 

・ルドルフ・シュタイナー

 

 “「神秘学的に地震はどのように証明されるか。地震は予想できるのか。もし災害が予想できるなら、なぜ前もって警告しないのか。そのような警告は、最初はすぐには役立たないだろうが、のちには役立つようになる」という問いが出てくるでしょう。

 この問いは二つの部分から成り立っています。一つは、「なんらかの方法で、深く秘められた関連から地震を予想できるか」という問いです。そのようなことがらを知るのは神秘学の最奥の認識に属すると言わねばなりません。きょう話した深い根拠から地上で生じる個々の出来事は、地球の彼方に由来する原因に関連しています。そのような個々の出来事の起こる日付を示せるというのは、まったく正しい事です。神秘学者は、そのような日付を示すことができます。

 さて、次の問いです。「それを告知できるか。告げてもよいのか」です。深い秘密に外的に向き合う者は、当然「然り」と答えることができる、と思うでしょう。しかし、このような出来事に関しては、各世紀にせいぜい二度か三度、秘儀の場から何かが予告されるだけです。それらの出来事は人類のカルマに関連しており、個々のことがらが避けられるとしても、ほかの所にほかの現象が現われるにちがいありません。予告することによっては、事態は何も変化しないにちがいありません。

 人間がこのような出来事を処理しようとすると、いかに恐ろしい方法で地球全体のカルマに介入することになるか、よく考えてください。恐ろしい方法で反応が生じるでしょう。例外的に、秘儀に深く参入した者が地震を予知したとき、自分のため、もしくは自分に近い者たちのために。その知識を用いることはできるでしょう。しかし、その秘義参入者は事態を知りつつ没するにちがいありません。何千年・何百万年をとおして人類のカルマのなかに存在してきたことがらは、短期間で廃止されたり、無力にされたりしないからです。”(P43~P45)

 

 “‥‥‥今日、最も一般的なことしか世界に伝えられない理由があるのです。

 人類の行為は自然の出来事と関連しうるという認識が精神科学をとおして人類にもたらされると、この認識から、自然災害について答えることができる時代がやってくるでしょう。神秘学はさまざまな運命を通過していきます。神秘学の影響力が狭いサークルに限定されることもあります。しかし、神秘学はみずからの道を進み、人類のカルマの中に入っていきます。そうすると、人類自身が人類のカルマに働きかける可能性も生まれるでしょう。”(P48~P49)

 

(ルドルフ・シュタイナー「天地の未来 地震・火山・戦争」(風濤社)より)

 

・スウェーデンボルグ

 

 “天使たちは未来のことを知っていない。未来のことは主のみが知っている。ただ、主がそれを啓示するに値すると考えている者は、いくらか未来のことを知っている。ある霊たちがしきりに未来のことを知ろうとしたとき、最初、私はいわば排泄物のようなものを感知した。地上の人々と同様、予見された未来から何が真であるか否かを知りうると考える者がいたからである。しかし〔現代のような〕終末の時代においては、多くの理由があって、奇蹟は起こらないし、未来のことが予言されることもない。ここではそのうちのただ一つだけを提示することが許されている。それは、天使たちは浄福を享受するために、未来のことをいささかも知ってはならない、という理由である。それで主は、〔聖書の中で〕将来のことを思いわずらうな、と語られたのである。さらに、霊たちが知りたくてたまらない未来についての知識は、彼ら自身や全体の秩序を混乱させるきわめて多くのものをふくむであろう。それゆえ、それはまた霊や天使たちを主が治める秩序に全面的に対立している。なぜなら、彼らは、彼らに許されているものを除いて、彼ら自身のものは何一つ自らに取得してはならないからである。(2271)”

 

(インマヌエル・スウェーデンボルグ「霊界日記」(角川文庫ソフィア)より)

 

*十和田湖の龍神・南僧坊の再生であった出口和明先生は、神界から降ろされる予言は、原則として何が起こるのかが告げられるときは、その出来事が起こる日時は伏せられ、はっきりした日時が告げられるときは、何が起こるのかは曖昧にされる、と言われていました。開祖や聖師を通じて皇道大本にもたらされた数々の予言は、霊界物語の拝読により瑞霊からの内流を受けることで、その予言が必要とされる時になってはじめて、隠された意味が明らかになるのだと思います。

 

 “「読んでも、片っぱしから忘れてしまいますので……」と申し上げました。すると、

 「忘れてもかまへん。読んでさえおけば、それが血となり肉となって、まさかの時にご内流となってでてくるのだから、読んでさえおけばそれでよいのだ」

 と申され、……“

 

(三浦玖仁子「花いろいろ 出口王仁三郎聖師側近七年の記録」より)

 

*1980年に公開された、ブルガリアの盲目の予言者ババ・ヴァンガの予言に、「クルスクが水に沈む。1999年か2000年」というのがありましたが、2000年に実際に起こったのは、ロシアの内陸都市クルスクの地殻変動による水没ではなく、クルスクという名のロシアの原子力潜水艦の沈没事故でした。 比較的信頼できる方の予言であっても、文字通りに受け取ってはならないことがわかります。

 

*ローマ・カトリックの聖痕を受けた聖者、聖パードレ・ピオ(ピオ神父)の予言として、世の終わりに起こる『暗黒の三日間』の予言というのがありますが、この予言は捏造されたものであって、ピオ神父はそのようなことは言われていませんし、書き残してもいません。このことは、カプチン・フランシスコ修道会がはっきりと否定しています。


Did Padre Pio make a prophecy of three days of darkness?
No, he did'nt. He himself denied this with a resounding "No" to a spiritual daughter a few years before his death. The prophecy of three days darkness would be of Anne Marie Taigi, among others.

「Voice of Padre Pio」(Nov.2,1997)

*この『暗黒の三日間』の予言は、もともとは福者アンナ・マリア・タイージ(1769~1837)の手記の中にあったものですが、アロイジオ・デルコル神父によると、それが起こる日時、具体的な内容については明らかにされていないようですし、そもそも彼女は、『天的なこの災難が何であるかは、神は、誰にも、親友にさえも、お示しになりませんでした』と書いています。また「ヨハネ黙示録」についても、エドガー・ケイシーによれば、これは使徒ヨハネが彼自身の霊的覚醒の体験を象徴的に記述したもので、読む人の霊的覚醒を促すために書き記されたものであって、決して世界の終末を預言するものではありません

 

・終末預言の解釈について  〔エドガー・ケイシー・リーディング〕

 

 “地球の変動との関連でいえば、これらは預言を通してばかりではなく、占星学の視点からも、高い地位にいる人々や集団の考えを通しても指摘されている。「時の完了」というべきものの中で、こうしたことが起きているのである。

 だが、地球にキリストが到来し、天の父とのとりなしを人類にお与えになって以来、「神の報復」と呼びならわされているものの多くをくつがえす力がきている。

 そこで、宇宙の法則に関する権威を与えられた人々の心が、恐るべき終末という考えに煽(あお)られるか、霊的覚醒の展開を予兆する事柄に煽られるかは、国々の情勢の中に今起きつつあることが母なる地球の表面の状態と関係していることに気づいた、この人に代表される人達の活動にかかっているのである。

 預言されていることについて、また地球の変動をくつがえす行動をとってきた、今後もとるべき人々の活動については、多くの質問があるだろう。

 まず最初の前提がある。罪が物質的な形をとった原因が何なのかを知りなさい。そのようなことを起こすのが、神の目的だろうか?それとも、表現を求める力が表現され、積極力と消極力になったのだろうか?

 一方の力を自覚してある方向をとることが消極的な力となり、他が積極的な力となった。地球の物質界の中で展開する魂の経験にも、同じ結果が出てきている。

 人間が経験し自覚する一方のそれら記録の中にも、このような理解が多く暗示されている。つまり、宇宙的、霊的、普遍的な法則が、人間経験の一部となりつつある。これは、岩の中の記録にも示されている。かつてあったこと、今あること、今後起きることを霊的理解の中で解こうとする者たちに「しるし」として残そうとの試みが、ピラミッドに暗示されている。

 その解釈はいろいろあるが、問題なのは解釈する人間の意識である。最初の前提に戻れば、解釈する人がどのような線をとっているのかに、すべてはかかっている。悲観的な解釈か、楽観的な解釈か、積極的か、消極的かということだ。

 消極的という意味は、地球と宇宙におけるその位置に関係して、魂がそこにどう働きかけるかを考慮せず、神の御言葉、約束、働きをほとんど考慮せずに、世界がただ呪われているとする見方である。主は、求道者を建設的な力に目覚めさせるものを、地上に現わされた。

 同じことは、主の人間に対する道、お約束を求める者たちへの導き、しるしとして与えられている聖書の預言にもいえる。個人の生涯と活動の中で、立てられたり与えられたりした誓いや約束についての解釈が、考慮されなければならない。

 宇宙空間を通る地球の運行が、いわば、預言された「時」と一つになる今の時代に起きることを、それは示しているのである。

 こうして、魂は、創造主を探し求めてゆく中で、道であり、真理であり、光である主の中に、忍耐が、かつても今も、今後も現れ続けることを知る。

 再び言えば、しるしや兆しの解釈は個人的な経験となる。そして、この人のように、魂の誰もが、同胞との関係の中でこうした活動を生きる機会を、特権を与えられている。示されているものを満たし、成就し、解釈するにあたって、恐怖ではなく希望を、憎しみではなく平和を、破壊ではなく建設的なものを、人々の人生と心と胸に導入する方法をとりなさい。(1602-5)”

 

(レイモンド・ウィレット「世界の運命、未来への警告」中央アート出版社より)