天海 (138)
天海 (138) 「是月、薩摩鹿児島ノ島津忠恒、山城伏見ヲ発シテ帰国ス」(「史料綜覧」) 都之城と外城12城に籠城した伊集院忠真は、隣接する加藤清正や伊東祐兵に密かに物資の援助を求めた。忠棟暗殺に同情的な両家は伊集院家の援助に応じたのである。 自ら乱の鎮圧を決意した忠恒は家康に帰国を願い出た。 「慶長四年六月上旬、薩摩少将忠恒公日州凶徒御征伐の為御首途ましまける。大道は已に逆徒の為塞がれ往還更に便り無ければ、霧島山の麓成瀬田尾越にかからせ給ひ、東光寺へ御参詣有 爰にて暫く御休息ましまし 夫より東霧島金剛佛作寺を御陣と定め給ひける。」(「庄内軍記」) 家康は島津家の内乱が拡大することを恐れ、両家を仲裁するために山口直友を派遣した。さらに九州地方の取りまとめを担っていた寺沢正成を使者として遣わせたが、それでも和睦は成立しなかった。 そこで秋月、伊東、相良、高橋、太田、立花、小西ら九州諸大名に出陣を要請したが、島津家がこれを固辞したのである。 忠恒は山田城、恒吉城を落としたが、その後は膠着状態となり、志和地城を兵糧攻めにした。伊集院側の客将・永仙は各地で奮戦したため、忠恒側の被害も大きかったのである。ついに義久も出陣し、財部城を攻めたが落とすことはできなかった。 ところが、反乱を起こした伊集院家を、清正が支援していたことが発覚したのである。家康が事態の収拾を図っていたこともあり、これは重大な背信行為であった。激怒した家康は清正の上洛を禁じて、清正が上方に向かった場合にはこれを阻止するように有馬則頼に命じたのである。 ここで、家康は再び直友を遣わし、忠真に降伏を促したのである。慶長5年(1600年)2月6日、志和地城が降伏、その後、外城が次々陥落し、3月15日、ついに忠真は降伏を受け入れた。忠真は義久・忠恒から「降伏すれば今まで通り召し抱える。」との証文を取り付け、頴娃1万石、その後、帖佐2万石の移封を受け入れたのである。 この内乱で家康が果たした役割は大きかった。まず、両者の調整を「公儀」として取り仕切り、寺沢正成という政権の取次役を派遣している。九州諸大名の動員も命じていて、事実上、天下人として行動しているのである。 家康は関ケ原の戦いで突然、「天下人」になったのではなく、三成が失脚した七将襲撃事件で伏見城を掌握し、これで、ほぼ「天下人」になったのである。これ以降、家康に正面から対抗できるものは存在しなかったのであった。あとは対抗勢力である他の大老・奉行を一人ずつ排斥していけばよかったのである。 『庄内軍記』,都城市立図書館,都城史談会 ,1975. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/9769471(参照 2024-04-01)