天海 (132)

 

 

 

 「是ヨリ先、石田三成、大隅帖佐ノ島津義弘ノ子薩摩鹿児島ノ同忠恒ノ、老臣伊集院幸侃(忠棟)ヲ誅スルヲ責ム、是日、島津氏ノ老臣、三成ニ陳辨ス、尋デ、所司代前田玄以等、忠恒ヲ山城高尾山ヨリ、伏見ニ迎ヘ歸ル。」(「史料綜覧」)

 

 三成忠棟誅殺に激怒し、義弘を呼び出した。義弘は、伏見の出来事であり、詳細について不明である、調査して後日報告すると告げたが、三成は納得しなかった。例によって、頭ごなしに義弘を𠮟りつけたのである。

 「このようなことをしでかして、島津家が無事であるとは思うなよ。」と蛇のような執念深さで義弘を追い詰めようとした。

 しかし、義弘は落ち着き払って、根気強く応酬したのである。

 「さて、ここでは詳細は分かりかねますので、後日ご説明に上がります。」と義弘は繰り返し、そのまま押し切って退席した。三成は義弘が自分を全く恐れていないことに驚いたのである。

 

 後日、義弘本人ではなく、家老が説明に来た。

 「忠棟は主家を蔑ろにする言動が多く、謀叛の疑いがあった。茶会で忠恒が呼び出し、これを吟味したところ逆上の上、主に暴言を吐いたので斬り捨てた。このことは伏見で江戸内府様が、「主君が反逆した家臣を成敗するのは当然である。」として裁定が出ている。京都所司代・前田玄以様も同意され、すでに蟄居先の高尾山から伏見にご帰宅されている。」とのことであった。

 

 三成は、島津家の背後に家康がいることを確信した。

 「すべてはあの男の差し金だ。おのれこのままでは済まさん。」と臍を嚙んだのである。

 

 「慶長四年三月廿三日、是ヨリ先、加藤清正・鍋島直茂・毛利吉政・黒田長政、小西行長ト戦功ヲ争ヒ、敗訴ス、是日、清正等、之ヲ糾明セラレンコトヲ豊臣氏ノ年寄衆ニ請フ。」(「史料綜覧」)

 

 朝鮮の役での論功行賞は、恣意的な判断が多く、豊臣政権内で諸将の不満は爆発寸前であった。諸将らは揃って奉行に訴えたが、武将側が敗訴したため、清正等はこれを年寄(大老)に判断を委ねたのである。 

 

 「前権大納言従三位前田利家薨ズ、尋デ、従一位ヲ追贈ス。」(「史料綜覧」)

 

 慶長4年(1599年)閏3月3日、利家が病死した。嫡男・利長は太閤の遺言に従い、利家の後を継いで五大老の一人となり、同時に秀頼の傅役となったのである。豊臣政権の重鎮であった利家の死の影響は、前田家に留まらず、政権内部に重大な軋轢を引き起こした。


 朝鮮の役での論功行賞の調停をしていた利家が死んだことで、諸将と奉行衆を仲裁をする者がいなくなってしまった。そこで諸将はついに実力行使に出たのであった。それが閏3月4日に起きた七将による石田三成襲撃事件である。

 

 さて困ったことに、この七将には諸説あるのだ。一般的には豊臣恩顧の大名である、福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政の七将であるが、他に蜂須賀家政、藤堂高虎、脇坂安治を加える説もある。その内容も暗殺未遂から集団訴訟まで解釈は幅広く、判明していないことも多いのである。


 

加藤清正