【川中島の戦い ⑫】
川中島の戦い ⑫ 「二万の御人数を一万二千、謙信の陣取り西条山へ仕懸け、明日卯刻(午前6時頃)に合戦を始め、越後勢、負けても勝候ても、川を超、退申べく候間、そこにて御旗本組二の備え衆をもって跡先より押はさみ、討ち取るようになさるべく候。」(「甲陽軍鑑」) さて、問題の箇所である。ここはよく吟味してみよう。 「甲陽軍鑑」では妻女山奇襲部隊を1万2千、旗本二の備えで8千と記している。(2万-1万2千=8千) 私は、昔から本隊より奇襲部隊の人数が多いことに納得がいかなかった。しかも奇襲部隊は山路を進むのである。山岳戦では人数より機動性が重要であろう。 例えば、長篠の戦い(1575年)では、徳川家重臣・酒井忠次が4千の兵で「鳶ケ巣山奇襲」を成功させている。この奇襲により長篠城は助け出され、武田勝頼は背後を断たれたのである。 この時も、忠次は前日夜に出陣し、山岳地帯を抜けて、山道に苦労しながらも、攻撃を成功させている。もしこれが3倍の1万2千であれば、どうであろう。統率が取れないばかりか、敵に気づかれる可能性もあった。 そもそも既述のとおり、武田軍には2万もの兵はいなかったのである。恐らく多くても本隊が1万5千、海津城に2千、合計で1万7千くらいであろう。 それに妻女山を攻めるなら、海津城にもある程度の人数が必要になる。上杉軍が川を渡らず、山を下って海津城に迫る可能性もあるからだ。 そうなると、信玄本隊が8千、別動隊が6千、海津城に3千、というのが常識的である。 最初から「甲陽軍鑑」の設定は嘘であると私は思っていた。ただその嘘がどこに起因するかということである。 それが「信玄本隊2万」であろう。作者は武田軍を盛況に見せるため、数字を盛ったのである。しかし、最終の八幡原決戦では上杉軍が優勢でなければならない。(政虎1万2千対信玄8千) こうして、つじつまを合わせるため、本隊8千、奇襲部隊1万2千という奇妙な兵力配分になったのであろう。 〇 第四次 川中島の戦い⑧~永禄4年(1561年) 勘助はこれを「孫氏の兵法」に擬え、妻女山攻撃部隊を「大正」とし、旗本の備えを「大奇」とした。孫氏は「奇策」と「正攻法」を以て相手を攻めるように説いていたのである。 【先手組】…妻女山奇襲部隊 高坂弾正、飯富兵部、馬場民部、真田一徳斎、小山田備中、 甘利左衛門尉、相木市兵衛、芦田下野、小山田弥三郎、小幡尾張守【旗本組】…信玄本隊 前備 中央 飯富三郎兵衛 左 武田典厩・穴山伊豆守 右 内藤修理亮・諸角豊後 旗本 左脇備 原隼人正・武田逍遥軒 右脇備 武田太郎義信・望月甚八郎 後備 跡部大炊介・今福善九郎・浅利式部丞 この様に並べてみると、奇襲部隊が10隊、旗本が12隊で旗本の方が多い。しかも典厩信繁や義信、逍遥軒ら親族は他の部隊より人数が多かったはずである。やはり信玄本隊の方が多かったのであろう。 こうして長い待機の期間を経て、信玄はようやく決戦を決意した。 「戦うからには、必ずや政虎の首を取る。」 かくして信玄は必勝の覚悟を固めたのであった。