大僧正天海 (244)
大僧正天海 (244) 10月26日、岡本新兵衛と多賀主水は、陸上部隊を引き連れて島原城を出た。 先頭は長柄隊、次に弓隊、鉄砲隊と続き、両家老と馬廻り衆、後詰は平槍を持った徒侍、小荷駄隊と続いたのである。総勢は300名、鉄砲は70挺であった。 「全く面倒をかけおって。百姓どもが、どれほどのものか。五・六人も死ねば逃げ出すであろう。」 「所詮は烏合の衆に過ぎず、恐らく戦にもなるまい。」と両家老はしきりに農民らを罵ったのである。 一方、有馬村には武装した村人たちが続々と集まってきた。 「この村には女子供も多くいる。ここで戦闘となれば巻き込まれるであろう。こちらから藩兵を迎え撃とうと思うが、どこが良いか。」と有家監物が尋ねた。 「深江でしょうな。」と蘆塚忠右衛門が答えた。 「うむ、今は廃城となったとはいえ深江城がある。このように深江川と畔津川が天然の堀となっている。」と千々石五郎左衛門が図面を引いた。 「なるほど、では鉄砲はいかがか。」と監物が尋ねると、駒木根友房が「今すぐと申せば、50挺ほどは揃えられるかと思います。」と答えた。 「ならば藩兵に遅れてはならぬ。まずは集められるものを集め、すぐに深江を抑えよう。」と合意したのである。 この度の合戦は、大将を監物とし、参謀役を五郎左衛門・忠衛門、鉄砲組頭を友房とした。島原軍が農民を侮っていたのに対して、一揆勢は藩兵を警戒して、斥候を立てていた。 「敵は300余り。深江城跡の先に高台があり、手前に広い畑がある。高台に陣をとって鉄砲を並べよう。畑に伏兵を隠し、銃撃戦になったら横腹を突こう。」と五郎左衛門が部隊の配置を提案した。 「それで藩兵が逃げ出せばよいが、高台に突撃してきたらどうする。」と忠右衛門が尋ねると、「鉄砲隊は貴重なので、その時は一旦、深江城に退きましょう。」と友房は言う。 油断していた島原軍は広い畑の真ん中を何事もなく行軍していた。すると深江城手前まで来ると、高台に突然、鉄砲隊が現れたのである。島原軍は慌てて戦の準備をしたが、一揆勢の銃撃によってバタバタと死傷者が出た。 一揆勢はしばらく鉄砲を乱射すると直ぐに退却した。島原軍が高台に向けて追撃すると、側面から伏兵が現れ、白兵戦となったのであった。 一揆勢は総勢で千人弱、これに対して藩兵は300人であった。しかし、白兵戦となると、さすがに藩兵は強かった。この戦いで一揆勢は切り崩され56人もの死傷者を出したのである。 深江城に退いた一揆勢であったが、勢いに乗った島原軍は忽ち古城に乱入した。ここでも一揆勢は85名の死傷者を出したのである。 一揆勢は、さらに後退し、庄屋の邸に逃げ込んだ。なおも追撃した島原軍であったが、ここで待機していた鉄砲隊に再び銃撃を浴びて大きな被害が出た。 ここまで島原軍の指揮を執っていた新兵衛であったが、この時負傷してしまう。一揆勢が予想より多いこと、藩兵の被害が大きいことに愕然としていた。 主水は「このまま布津村まで押し切ろう。」と主張したが、手負いの新兵衛が首を振った。 「あれを見よ。」と新兵衛が指をさすと、遥か南方に一揆勢の援軍が近づいていた。 「今、島原城は手薄だ。ここで我らが敗れると本城が危うい。」といった。 かくして島原軍は、主水を殿軍に、島原城までで退却したのである。 平井聖 [ほか]編修『日本城郭大系』第17巻,新人物往来社,1980.11.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12212032 (参照 2026-04-08)