天海 (174)
天海 (174) 「慶長五年八月十九日、徳川家康、村越直吉ヲ尾張清州城ニ遣シ、福島正則等ニ軍状ヲ徴セシム、尋デ、正則等、美濃岐阜城攻撃ノ策ヲ決シ、其部署ヲ定ム、直吉、江戸ニ帰リ、復命ス。」(「史料綜覧」) 家康からの叱責を受けた正則らは、8月22日夜間、清州城から出陣した。竹鼻城を目指す正則率いる福島軍は、先陣の福島隊に、細川隊、京極隊、黒田隊、加藤嘉明隊、藤堂隊と続き、総勢は2万5千人であった。一方、池田輝政率いる池田軍1万8千人は河田の渡しを目指して北上したのである。 福島軍は真夜中に天神の渡しを船で超えると、木曽川河畔まで進み、そこで陣を布いた。対岸には岐阜・織田秀信の重臣・杉浦重勝の兵1,500人が渡河を阻止するため待ち構えていたのである。杉浦隊は篝火をたき、河岸に柵を設け、多くの鉄砲、大筒を揃えていたのであった。 福島軍は強力な火砲を前にして、なかなか渡河に踏み切れなかった。そこで田中吉政が対岸に鉄砲を撃ちかけ、渡河の姿勢を見せることで、敵軍の注意を引き寄せた。その間に主力は南下して加賀野井の渡しから木曽川を越えたのである。 側面から攻撃を受ける形となった杉浦隊は、居城の竹鼻城に退き、籠城戦となった。ところが正則は二ノ丸に籠っていた毛利広盛と昵懇であったため、本領安堵を条件に降伏させたのである。福島隊が二ノ丸まで侵入し、本丸のみとなった重勝であったが、それでも最後まで抗戦した。力尽きて落城となると、僅かな兵と共に自害して果てたのであった。 8月23日夕刻、正則は竹鼻城から岐阜城を目指して進んだ。鶉のあたりまで来ると家々に放火し、狼煙としたのである。 河田の渡しでは池田軍が福島軍の狼煙を合図に渡河を開始する手筈であったが、輝政は初めから約束を守る気はなかったようである。 織田勢の木造具康・百々安信隊3,500人は新加納村あたりに陣を布き、秀信自身も1,700人で川手焔魔堂に陣を布いて池田隊を待ち受けていた。 21日夜、池田隊は果敢に渡河を開始した。迎え撃つ織田軍も鉄砲を激しく撃ちかけ、応戦したのである。双方は激しく戦ったが、次第に兵力差が織田軍を消耗させていったのであった。「ここは利あらず。」と判断した具康と安信は焔魔堂の秀信に、岐阜城退却を進言した。織田軍は巧みな退却戦で岐阜城まで撤退したのである。 8月23日早朝、正則と輝政は岐阜城下で合流すると、評定で激しい先陣争いをはじめ、忠勝・直政が止めに入っても双方聞き入れなかったのである。 その様子を高虎は、呆れた表情で見ていた。嘉明も軍首脳のドタバタ劇にうんざりした様子で、「どっちが先陣でも構わんだろうが、阿保らしい。」と呟いたのである。 「お前がそれを言うか。」と高虎が空かさず茶々を入れたので、二人は暫く睨み合った。 「まぁオレたちも大概だが、池田侍従ってあんなに頑固だったかな。」と嘉明がいうと、「何か遺恨でもあったのであろう。相手が相手だからな。」と高虎は答えたのである。 結局、大手口七曲道が福島隊・細川隊・加藤隊・京極隊、瑞龍寺山砦には浅野隊、搦め手水手道には池田隊、権現山砦には井伊隊・本多隊が攻め上ることでようやく話がついた。因みに高虎は吉政、長政と共に方県郡河渡に布陣することになったのである。