大僧正天海 (240)
【島原の乱②】
「寛永十四年・四郎年十五才に罷成候」(「細川家記」)、
「四郎父甚兵衛六十三才ノ農夫」(「耶蘇天誅記」)
小西家が関ケ原の戦いで滅んでから、37年が経っている。すでに7人は、60歳を超えた老人であった。
例えば、森宗意軒は、「オレは戦がしたいだけよ。」と明言していた。
「せっかく朝鮮、大坂の陣で生き残ったのに、何事も為せぬまま、死んでなるものか。最後は武士として、大きな花を咲かせてみせる。」というのである。
幕府の武断政治によって、このような浪人共は全国に40万人もいたという。肥前国・肥後国には、小西氏の外に有馬氏や加藤氏の浪人たちもいたのである。
伝兵衛らは、「やがて、この地に天童が舞い降りる。何事か起きるぞ。」と島原の村々に吹聴して歩いた。
益田四郎が、宇土郡江辺村から大矢野島にやって来た。総大将としての名前は「天草の大矢野四郎」とした。甚兵衛が「益田」の名前を使わせなかったのである。
「名前を特定されては、逃れ難い。」として、四郎の外に小姓として同年代の少年を身の回りに置いた。誰が「大矢野四郎」なのか、分からなくするためであり、いわば影武者であった。
「十月七日、大矢野の宮津において、吉利支丹の魁首にぞ取り立てける。あたかも民衆を欺かんが為に綾羅錦繍を以て衣裳とし、金銀珠玉を以て偑玉とし、謀者ども、口いまだ乳臭き五尺の童子を神仏の如く礼拝恭敬し、主人の如く膝行頓首して、謀計を近隣他村に触れまわり、愚昧の心を奪ひける。巧みのほど恐ろしけれ。」(「耶蘇天誅記」)
この「大矢野四郎」がいつ「天草四郎」になったのかは、詳らかではない。それでも、10月7日には、大矢野島宮津で、お披露目の儀式が執り行われた。
そのとき四郎は白い綾の布をまとい、裁付袴をはいて、首には苧麻3束を巻き、額に十字架を立て、手に御幣を持っていたという。
伝兵衛らは精一杯、「天童らしく飾り立てた」のであろう。首謀者7人は、ひたすら四郎を恭しく拝し、尊崇の念を奉ったのである。
「四郎、威儀を正し衣裳を修め、天女の如く装ひて、上座に設けたる褥の上に着座し、唐音の如く章句わからぬ言にて何やら信者どもに説き示しけるに、頭を地にすりつけ、「あら尊とや善主吉利支」と、俯せながら感嘆していたりけり。」(「同上」)
それから四郎は様々の奇跡を起こす。気がふれた老婆が、四郎が触ると我に立ち帰り、正常になった。また、四郎を口汚く罵ったものは、全身が痺れてその場に倒れ、四郎に慈悲を乞うと忽ち元に戻ったのである。
「まるで猿芝居だな。」と宗意軒が苦笑いすると、「それでいいのよ。」と松右衛門が笑った。
「この話が何れ巷間の噂となり、尾ひれが付けば、それなりの伝承となるものだ。
それより、なんとしても鉄砲と玉薬は用意せねばならぬ。郡代如きは、物の数ではないが、藩兵となれば、容易なことではない。」と松右衛門がいうと、宗意軒は微かに笑った。
「そこに抜かりない。浪人も百姓もいざという時のために、武器は隠し持っているものだ。」と宗意軒は応じた。
天草四郎
