大僧正天海 (249)
細川藩は、まず小左衛門と小兵衛を脅して、嘘の書状を書かせた。
「甚兵衛殿と四郎殿が一旦宇土にお帰りならねば、我等は天草に戻れません。」
父・伝兵衛には「甚兵衛殿と四郎殿がそこに居られては、当地も迷惑でございます。お二人を当国へ戻されますよう。」と書き綴った。
これに対して伝兵衛の返書は「甚兵衛殿と四郎殿は、現在長崎にお越しである。」というものであった。
「島原の様子、追々申し上げ候ところに、御下知しだいに仕るべきの由、かしこみ奉り存じ候。御下知ござ候はば、さっそく仰せ付けられ下さるべく候。
寺澤兵庫様ご領分天草にも、切支丹はしばしば蜂起つかまつり候よし、取沙汰つかまつり候。天草にも蜂起つかまつり候の儀必定の由、かくの如く藤兵衛より申し来り候。」(「細川家史料」)
「島原の様子につきましては、追って申し上げますが、幕府からのお下知があり次第、出陣する覚悟でございます。もしご下知がありましたならば、即刻お申し付けください。
寺沢兵庫頭様の領分である天草においても、切支丹がたびたび蜂起しているという噂を耳にしております。天草でも蜂起が起きていることは間違いないと、(三宅)藤兵衛より報告が参っております。」
11月1日、細川藩三家老は、府内目付に対して、書状を出している。
これを分かりやすく意訳すれば、「島原の事は何度も伝えているのに、下知はどうした。ほら見ろ、天草に飛び火したぞ。どうするつもりだ。」といっているのである。
府内目付からの返事が、「この儀、必定候とも、江戸より御下知次第に然るべく候。」であった。
つまり「天草がどうなろうと知ったことか、ともかく幕府からの下知を待て。」といっているのである。当事者能力の欠如も甚だしく、もはや無責任という他ない。
細川藩は一揆勃発直後から、川尻に4000人の藩兵を待機させている。陸続きの鍋島藩は国境近くの神代に5500人を布陣させたまま、待機している。この府内目付の無能さ、無責任さが島原の乱を拡大させた元凶であった。
こうしている間に、大矢野島の切支丹は勢力を拡大し、続々と上津浦に上陸し、天草上島を制圧しつつあった。
11月4日、島原一揆の急使が大坂に着いた。大坂城代・阿部正次は江戸に早馬を立てると、すぐに京都所司代・板倉重宗と協議するため、上洛したのである。
「御下知以前に取りかかり候こと、必ず無用に候。並びに、面々の領分にて武具売買つかまつらざる様に申し付けらるべく候。
委細、豊後目付牧野伝蔵・林丹後守の指図に任せらるべく候。」(「島原の乱史料集」)
「下知が下る前に、勝手に軍事行動を開始することは、決してあってはならない。また、それぞれの領地内において、武器や武具の売買を行わせないよう厳重に申し付けること。詳細な指示については、現地へ派遣した目付である牧野伝蔵(成正)と林丹後守(正成)の指図に従うように。」
結局、最終決定権もなく、現地にもいない中間管理職の二人には、具体的な指示は何も出せなかったのである。
