大僧正天海 (246)

 

 

 

 

 「態々一筆啓上せしめ候

 ここもと百姓ども切支丹にわかに立ち上がり、一揆の仕合にて村々焼き払い、城下まで焼き申し候。下々の儀に御座候へども、人数五、六千ほど御座候。隣国の儀に御座候間、さっそく御加勢下さるべく願いたてまつり候。」(「綿考輯録」)

 

 島原の三家老は、恥を忍び熊本細川藩佐賀鍋島藩等救援を依頼した。島原城下には各地から一揆勢が続々と集まり、すでに5~6千人程になっていた。城下の住民は北目の村に避難したという。

 

 監物五郎左衛門はいち早く米蔵を抑え、友房兵器庫を抑えたのである。食料と武器を確保できれば、当面一揆は継続できる。一揆勢の中には飢えて参加している者もいた。飢餓の苦しさは筆舌に尽くしがたいのである。

 

 「松倉長門守殿居城、当島原火事出来仕り候。その上、在郷も端々焼き申し候て、鉄砲の音も仕り候由、国端より申し越し候。」(「細川家史料」)

 

 島原の乱勃発の時、細川家では、藩主・忠利江戸に、大殿・三斎(忠興)京都にいた。

 熊本城では、対岸の島原半島の音がよく聞こえる。

 

 「大筒の音がする。是は兵乱であろう。」と城内で碁を打っていた米田是季は判断した。

 細川家三家老松井(長岡)佐渡守興長、有吉頼母佐英貴、米田(長岡)監物是季)は、すぐに情勢把握に努めたのである。

 

 島原半島から切支丹ではない農民が、命からがら飽田の浜に逃げてきた。すぐに熊本城下に呼び寄せ、話を聞くと一揆勢は村々を焼き払い異教徒を殺害し、城下に放火しているという。

 

 10月28日未明、三家老は、島原からの救援要請に先立ち、豊後に駐在していた幕府の目付・牧野成純、林勝正に急使を立てた。

 

 また三家老は、島原に隣接する、天草を心配していた。天草を支配する富岡番代・三宅藤兵衛藩主・忠利の従兄弟である。

 

 「態と啓上致候、然れば島原に当り火事出来仕り、端々在郷も焼け申候。其の上鉄砲の音仕り、天草より島原に船数多往来仕候由申候。如何の様子にて候哉、承度候。御報具に仰せ聞けらるべく候。若し御用の儀も候わば、仰せ越去るべく候。」(「同上」)

 

 細川家からの書状に藤兵衛は驚いた。島原の一揆の情勢について詳しく知らなかったのであろう。すぐに配下の者島内を調べさせたようである。

 

 「早々御使札に預り、昨二十八日の御進状拝見致候。仰の如く今度島原表在々百姓共切支丹に立帰り、官寺まで焼き自由仕候に附きて、島原衆専ら相鎮められ候由申候。天草之内大矢野と申在所其外小村二、三ケ所切支丹に立帰之由、一在昨日より承仕候間、即時に可申付候。御用候わば申し入る可き由忝く存じ奉り候相替儀も候わば申し入る可く候。」(「同上」)

 

 「早々のお手紙、昨日28日付のご報告を拝見しました。仰せの通り、この度、島原方面の百姓どもが切支丹に立ち戻り、役所や寺まで焼き払って勝手な振る舞いをしている件は、島原藩が懸命に鎮圧していると聞いています。

 天草においても、大矢野という場所やその他2、3の小村でも、切支丹に立ち戻った者がいると、昨日から聞き及んでおりますので、鎮圧をするよう命じました。何か御用があればお申し付けくだいとのこと、ありがたく存じます。また変わったことがあれば報告いたします。」(三宅藤兵衛)

 

 

熊本城