大僧正天海 (238)
寛永13年(1636年)は、正月元日から日蝕があり、誠に不吉な幕開けであった。春は長雨が続き、麦が腐り、夏は干天で水不足が続いた。2年続いた凶作の後だけに、農民たちは、忽ち困窮したのである。
当時の天草の石高は4万2千石とされ、これは明らかに過大評価であった。後に代官となった鈴木重直の訴えにより、「2万1千石」と半減されている。しかし、これも戦後復興を考慮した過小評価であろう。
土地の広さ、開発状況から考えると3万石から3万5千石程度が、妥当だといわれている。当時の天草は米の収穫以外に漁業・塩業などの「小物成」が豊富であったため、これを米換算して上乗せした、という説が有力である。
天草には、本渡郡代に九里三左衛門、河内浦郡代に中島與左衛門、栖本郡代に石原太郎左衛門が置かれていた。彼らは郡内に家族と共に土着し、大きな権力を持っていたのである。
郡代は当初、本藩から派遣された番代のいう事を全く聞かなかったという。藤兵衛が「番代永勤」となったのも、定住して彼らを抑えるためでもあった。
藤兵衛は郡代を指揮する「番代」であったが、凶作であるからと年貢の減免を許可することはできなかった。天草4万2千石のうち、藤兵衛らの知行地1万石以外は唐津藩の直轄地であり、減免は本藩(勘定所)の権限であった。
むろん地域を支配する郡代のところには、庄屋から減免の嘆願が来ていたはずである。しかし郡代からは「怠慢だ。」と叱責されるばかりであったという。
そもそも郡代には年貢徴収という責務が課せられていて、唐津藩が減免を決めない限り、単独でそれを実行できるはずもなかったのである。
一方、島原藩の場合、藩主の松倉勝家は、ほとんど江戸にいて、藩の政治は三人の家老(多賀主水・岡本新兵衛・田中宗夫)に任されていた。
寛永13年の大凶作は、寛永11年より深刻なものであったが、三家老はむしろ年貢の徴収を強化した。領民が餓死するような状況でも、蔵に残っているわずかな米や、農民が翌年の作付けのために命がけで保存していた「種籾」まで年貢として没収したのである。
種籾を奪われることは、その年の飢えを凌げないだけでなく、「来年も農業ができず、死を待つしかない」ことを意味した。これが、農民たちが「座して死ぬよりは」と蜂起を決意する決定的な動機となったのである。
「(寛永十三年五月十九日)幕府、目付馬場利重及ビ肥前長崎奉行榊原職直ニ条令ヲ下シテ、日本人ノ異国渡海ヲ一切禁ジ、南蛮人ノ子孫ノ追放ヲ命ズ。」(「史料綜覧」)
これは後に「第五次鎖国令」とよばれる法令である。
この史料に出てくる馬場利重(長崎代官・目付)と榊原職直(長崎奉行)は、当時の長崎の行政や監視を担っていた実務派の官僚であった。
1. 日本人の海外渡海の完全禁止
それまでも段階的に制限されていたが、この法令により「日本人の海外渡海」と「海外に在留する日本人の帰国」が全面的に禁止された。海外に住む日本人がキリスト教の影響を受けて帰国し、国内で布教することを防ぐのが主な狙いであった。密出国しようとした者は死罪という非常に厳しい内容で、これにより、東南アジア各地にあった「日本町」は、衰退することになる。
志岐隆重 著『島原・天草の乱 : ドキュメント』,葦書房,1991.3.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/13207254 (参照 2026-04-02)
