大僧正天海 (252)
大僧正天海 (252) 「(寛永十四年十一月)十二日使番松平甚三郎行隆は、いそぎ肥前島原にまかり、一揆騒乱のさま巡察して来るべしとめいぜられいとま給ふ。」(「大猷院殿御實紀」) 翌12日、この日も、島原擾乱の注進が相次いだのである。家光は少し心配になり、松平行隆を島原に遣わした。 この日、保科正之、酒井忠当、松平定行、松平定房が領国に戻るため、あいさつに来た。 13日になると江戸在府の九州大名、細川忠利(肥後国熊本)、黒田忠之(筑前国福岡)、木下延俊(豊後国日出)、稲葉一通(豊後国臼杵)、中川久盛(豊後国岡)、有馬直純(日向国延岡)、立花宗茂(筑後国柳川)、鍋島勝茂(肥前国佐賀)、有馬豊氏(筑後国久留米)、五島盛利(肥前国福江)を召した。 「近日鎮西耶蘇宗の徒蜂起すれば、各子弟のうちを所領につかはし、封内を厳に成敗せしむべき旨仰出さる。」(「同上」) 「近ごろ九州において耶蘇宗の徒が蜂起したため、諸大名は各自の子弟や家臣を領地へ派遣し、領内を厳重に成敗するよう、仰せ出された。」 ここでは、本人ではなく子弟や家臣を派遣しろといっているのである。幕府は西国大名を警戒して、江戸から出さなかったのであろう。 その一方で、相良頼寛(肥後国人吉)、伊東祐久(日向国飫肥)、松浦鎮信(肥前国平戸)、寺澤堅高(肥前国唐津)、久留島通清(豊後国森)、秋月種治(日向国高鍋)に対しては所領に戻り、厳重に対処しろと命じている。 「十五日、島原騒動すといへども、長崎港は静謐のよし聞ゆ。しかれども猶鎮禦すべき旨、命ぜられ、榊原飛騨守職直、馬場三郎左衛門利重赴任のいとま給ふ。」(「同上」) 「15日、島原で一揆が起きたとのことだが、長崎港は平穏であるという。しかしながら、念のために警備を強化すべきであるとの命が下り、長崎奉行の榊原職直と馬場利重の両名は、現地へ赴任するための暇乞いを賜った。」 島原から続々と情報が到着していた。状況の悪化が手に取るように分かったのである。 ただ、長崎はまだ、動乱の兆しはなかった。長崎は日本の窓口であり、ここを落されては一大事である。海外勢力との連携する可能性もあった。 榊原職直は長崎奉行で、この時江戸にいた。いそぎ長崎に戻り、防衛を強化するよう命じられたのである。 また、馬場利重は、新任の長崎奉行で、赴任直前であった。この非常事態を受けて急遽現地へ下向することとなった。 「十六日、東叡山大僧正天海が坊にならせられ、風流御覧あり。天海銀時服下さる。」(「同上」) 「16日、家光は東叡山寛永寺の大僧正天海の宿坊へお出ましになり、趣向を凝らした庭園などをご覧になった。その際、天海へ白銀と季節の衣服を賜った。」 さて、この様に一揆の緊急対応に追われている最中、驚いたことに家光はわざわざ寛永寺を訪れている。この緊迫した情勢の中で、「精神的な支柱であった天海に意見を求めたのではないか。」と一般にはいわれている。 金岡秀友 著『大乗仏教 : その行動と思想』,評論社,1975.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12223604 (参照 2026-04-14)