大僧正天海 (223)
大僧正天海 (223) 19日、御本地薬師堂で供養が行われた。導師は大僧正天海である。 日光山で行事が続く中、家光は旅館に引き上げた。旅館で寛いでいると、そこに天海が拝謁にやって来たのである。 「御法会の数々、大変お疲れ様でございました。お蔭を持ちまして、儀式は滞りなく終了し、誠に喜びに堪えません。 奇しくも連日、天気は晴朗で、『天意人望にかなう』とは、まさにこのことでございます。至孝の盛運、神仏感応疑いなきものと存じます。」 「大僧正も連日の大法会、祝着至極、ご苦労であった。今夕、山を下りて今市の宿まで戻ろうと思う。」 20日、鹿沼宿で昼食を摂ると、壬生城に宿を取った。壬生城はこの度、阿部忠秋の所領となっている。 21日には土井利勝が道中に茶寮を建てて、家光を出迎えた。そのまま、岩槻の城まで進むとここに宿を取った。 22日午後、小雨が降りしきる中、家光は江戸城に帰った。江戸城では大手門に譜代大名が居並び、家光を出迎えたのである。城内では春日局が盛大な饗応の席を設けていた。 「(寛永十三年四月)廿九日仙台黄門きのふ参府有しが、所労のよし聞し召て松平伊豆守信綱をつかはさる。かねて封地へ御使下され、御尋有べしと思召たるに、病をつとめて参府す。こと更御心もとなく思召、信綱よく見て参るべしと御旨なりき。ゆるゆる保護して心ままにまうのぼるべしとつたふ。」(「同上」) 「4月29日。伊達政宗が昨日、江戸に到着したが、病気であると聞いたので、松平信綱を見舞いに派遣した。 かねてより、仙台へ使者を下して病状を尋ねようとしたところ、病をおして江戸に出てきたという。家光は、ことのほか心配して、信綱によく病状を見てくるように、と命じた。『ゆっくりと養生して、容体が改善してから登城すればよい。無理をなさるな。』と申し伝えた。」 すでに戦国の遺物と化していた伊達政宗であったが、家光はこの人物が大好きであった。 家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで、父の如く慕っていたという。何より政宗が語る「豊臣秀吉」や「徳川家康」との武勇伝が大好きで、「相伴衆」として重用したのである。 秀忠が亡くなり、動揺する大名衆に対して、家光が「我は生まれながらの将軍である。」と宣言した時、真っ先に同意したのが政宗であった。 「異議あるものは、この政宗がお相手いたす。」と周囲を睥睨し、威圧したのである。 「政宗嘗て江戸に赴く、千手を過ぐ、将軍家光、千手に狩りす。従者政宗に謂て曰く、今日将軍游猟すと、請ふ疾く馳て其未だ至らざるに、及ばんと、聴かず、故らに徐々として過ぐ。家光方に鷹を臂にし隴間に立ち、従臣未だ来り属せず、時に政宗輿に在り、見ざるまねして過ぐ。」(「名将言行録」) 「かつて政宗が江戸へ向かう途中、千住を通ったとき、将軍・家光が千住で鷹狩りをしていた。お供の者が政宗に「今日、将軍様が狩りをしておられます。御到着される前に、急いで通り過ぎてしまいましょう。」と進言したが、政宗は聞き入れず、かえってゆっくりと進んだ。家光はちょうど鷹を腕に据えてあぜ道に立っており、従臣たちもまだ側には揃っていなかった。その時、政宗は輿の中にいて、家光が見えないふりをして、そのまま通り過ぎたのであった。」伊達政宗森末義彰, 谷信一 編『国史肖像集成』第6輯,目黒書店,1941.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1903704 (参照 2026-03-19)