天海 (135)

 

 

 

 「朝鮮蔚山表、後巻の仕合わせ、今度様子聞き届け候の処、御目付衆言上の通り、相届かざる儀と存じ候間、新儀御代官所、前々の如く返し付け候、并、豊後府内の城も早川主馬に返し付け候様に申付け候、然る上は彼表において其方越度にあらざるの段、歴然候間、その意を得らるべく候、 恐々謹言

 閏三月十九日  利長・輝元・景勝・秀家・家康の署名

 蜂須賀阿波守殿 黒田甲斐守殿」(「閏三月十九日付蜂須賀家政・黒田長政宛五大老書状」)

 

 「閏三月十九日、豊臣氏ノ年寄衆、蜂須賀一茂(家政)・加藤清正・黒田長政等ノ朝鮮出陣ノ時ノ奉行福原長堯・熊谷直盛等ノ私曲ヲ訴フルヲ裁シ、長堯等ノ領邑ヲ収メ、早川直政ニ豊後府内城ヲ返付ス。」(『史料綜覧』)

 

 朝鮮の役蜂須賀家政、黒田長政を讒言した軍目付・熊谷直盛、福原長堯が改易された。この二人は共に三成の義弟であり、武将たちからは「三成の手先」と見なされていたのであろう。蔚山城の報告の件は既に記述したが、本当に重箱の隅を突くような下らないものであったので、とても擁護する気にはならない。しかし本来悪いのは秀吉であり、この時期既に真面な判断がついていなかったのであろう。

 

 目まぐるしく変わる状況に遠山邸でも慌しく人馬が行き交っていた。利景自身も遠山邸と徳川屋敷を何度も往復していたのである。

 「なぁ、勘右衛門、結局、清正らも伏見城を攻めることが出来ず、膠着状態を余儀なくされる。これを差配するのは、内府の他になくなる訳だ。大老・家康の権威は益々高くなり、権勢を誇った三成は失脚した。まさに内府の思う壺だ。」と天海は言った。

 「この機会に三成なんぞ、腹を切らせればいいのだ。あんな奴。」と利景は不満そうに言うのだ。

 「それでは、七将の圧力に屈したことになる。すると七将の権威が上がり、内府の権威が下がる。蟄居で皆を納得させることが大切なのだ。」と天海は説明した。

 「ちまちまと面倒なものですな。」と利景は不満そうに言った。

 

 「そう言えば美濃から庄兵衛が来る手筈になっている。実は稲葉の件、庄兵衛に頼むことにした。あいつの方が、お福と親しいから、何かと都合が良くてな。」と天海は言った。

 「稲葉殿は小早川家の家老職ですが、太閤からの付け家老なので、確か大坂城下に屋敷があったと思います。取り敢えず遠山屋敷にお迎えしましょう。」と利景は応えたのである。

 

 その頃、三沢庄兵衛と跡継ぎの為信(為毗)は美濃から近江に抜けたところであった。閏三月とはいえ、山道は凍える。里まで下りてきて琵琶湖が見えると、ホッとするものだ。

 「親父殿、大丈夫か。」と為信は笑いながら言う。

 「ああ、長旅は疲れる。オレももう年だから、そろそろ引退したいと弥平次に言っているのだが、今は大事な時期だから、もう少し待ってくれというのだ。」と庄兵衛はため息をついた。

 実は、庄兵衛はこの機会に、二代目庄兵衛である為信に主な仕事を引き継ぐつもりである。しかし、明智家の仕事はまだ続けねばならないであろう。

 

 

琵琶湖伊吹山