天海 (131)

 

 

 

 忠棟の妻は三度にわたり裁定に異議を訴えたが、「薩摩弁は意味が分からん。」と言って家康は取り合わなかったという。3月11日、伏見で忠恒の仕置きを行った家康は、すぐに大坂へ向かった。容体が悪化した利家を見舞うためである。

 

 この度の家康の大坂訪問五奉行と五大老の合意でなされたものであり、後の大坂城入城の先鞭をつけたものである。

 家康は厳重に警固された大坂の藤堂邸に入った。旅装を改め、身支度を整えると、高虎の護衛を受けて大坂の前田邸に向かったのであった。これで和解の約束である相互訪問を成し得たこととなる。

 

 家康は病床に臥した利家を見舞い、懇ろに言葉を掛けた。利家は既にやせ衰え、最早余命幾ばくも無い容体であった。それでも最後の気力を振り絞り、家康に豊臣家への忠義を願うのである。

 

 その夜、家康は藤堂邸に宿を取った。

 「いかがお見受けされましたか。」と高虎が問うと、

 「思った以上に悪い。伏見でお目に掛った時とは別人のようだ。」と家康は難しい顔をしていった。「残念ながら、あれでは、月を越せまい。」と言うのだ。

 

 この年は3月の次に閏3月があった。新月から新月までの間隔は平均して29.5日なので、29.5日×12ヶ月=約354日となる。つまり太陽暦の1年より約11日短いため、そのままではだんだん季節がずれていくのだ。そのずれが、ひと月分に近くなると、閏月というものを入れて、ずれを修正したのである。

 

 さて、忠棟の嫡男である伊集院忠真は、父・忠棟の惨殺を都城郊外の鷹狩の場で聞いたという。急ぎ帰城した忠真は直ちに家臣を集めて評定を開いた。既に義久からは和睦を求める使者が来ていた。

 親族衆がこの際、島津宗家との和解を図るべきだと主張したのに対して、根来衆の客将・白石永仙徹底抗戦を主張した。

 

 「和睦を進めながら、既に義久公は庄内への街道を封鎖しております。此度の事件は忠恒一人の狂乱ではなく、島津宗家がこの伊集院家を滅ぼそうとしているものと存じます。お腹を括りなされ。」と永仙は言うのである。

 

 これは永仙が正しいであろう。この事件は義久が薩摩、義弘が大坂にいるときに起きている。つまり二人にはアリバイがあるのだ。だから最悪の場合、忠恒が乱心したことにして切腹すれば、島津家は生き残れるのである。

 明らかに三人は共謀しており、義久がいち早く荘内地方を封鎖したのは、忠棟が伏見で暗殺されることを事前に知っていたからに他ならない。

 こうして、忠真は島津家に反旗を翻したのである。伊集院家は都之城と12の外城に8千人で籠城したのであった。

 

本村秀雄 著『都城盆地の歴史散歩』,南九州文化研究所,1980.10.

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9773575

(参照 2024-03-24)