天海 (139)

 

 

 

 慶長4年(1599年)4月、川越の豪海僧正が危篤との知らせが天海に入った。天海は家康の許しを得て、遠山家の家臣と共に急ぎ関東へ下ったのである。恐らく臨終には間に合わないであろうが、葬儀を取仕切らねばならなかったのであった。

 

 このため、稲葉家との交渉については庄兵衛親子が徳川家に報告することになった。

 「弥平次の奴め、こんなことまでオレに押し付けやがって。」と庄兵衛は散々ぼやくが、もはや致し方ない。

 

  徳川屋敷に出向くと、正信だけではなく、何と家康本人もいた。庄兵衛が家康と会うのは安土城での接待以来である。

 家康はどんぐり眼で庄兵衛の顔を穴が開くほど見ると、

 「うむ、確かに三沢庄兵衛だ。間違いない、やはり生きておったか。」と手を叩いて喜んだ。

 「なぁ佐渡、人間も長生きすると色々、珍しいものが見られるな。」と正信に向って破顔した。庄兵衛は全身から汗が噴き出した。

 「庄兵衛、これからもよろしく頼むぞ。」というと上機嫌で家康は、そそくさと部屋を出て行ったのである。

 

 庄兵衛は正信に交渉過程を一通り説明した後、

 「小早川家には、もう一人、平岡という付け家老がおります。こちらも押さえれば、より確実かと思われます。」と庄兵衛は付け加えた。

 正信は大きく頷き、「確かに付け家老二人に意見されれば、若い当主は、なかなか逆らえまいな。」と納得したのだ。

 

 6月に入る頃には、帰国をする諸将が多くなった。特に朝鮮の役に参加した諸将は久方ぶりにゆっくりできる帰国となったのである。

 

 「慶長四年九月七日、家康重用を賀さんため大阪に赴き、石田三成の𦾔館に宿した。この夜、増田長盛、長束正家来つて、前田利長の陰謀を密告した。

そは家康登城の日に、前田肥前守利長が、浅野長政、土方勘兵衛河内守雄久、大野修理亮治長に委嘱して、家康を刺さんとすと云うのである。」(「関ケ原戦記」)

 

 これが有名な「家康暗殺未遂事件」である。しかしこの事件は後世編纂された史料によるもので、一次資料は僅かしかない、というのだ。ただ結果は重大であるため「何かがあった」ことは間違いないのである。

 

 秀頼重陽の儀を祝うため、家康は大坂城に登城した。重陽の儀とは縁起の良い奇数の最大値である九が並ぶ、九月九日のことで、武家の祝日とされたのである。

 家康は旧三成邸に宿を取った、というので恐らく事前に三成の許可を取っていたのであろう。家康と三成は、激しく対立していたと思われがちであるが、この頃は、家康が融和策を採っていたようだ。蟄居中の三成を、できれば徳川方に引き込みたい、と考えていたのかも知れない。

 

 するとその夜に増田長盛長束正家が旧三成邸にやって来て、“前田利長が、浅野長政、土方雄久、大野治長に、登城の際に家康を刺殺するよう依頼した”と密告したのである。

 

重陽の節句花手水奉納