天海 (127)

 

 

 

 「私はこの国の大老であるぞ。太閤殿下は私に伏見で政務を行えと直々に遺言しておるではないか。私が了解しておれば、それは即ち公儀であろう。何の不足があるか。」と家康は反論した。

 「しかしながら、公儀と申せばやはり豊臣家の宿老である奉行に話を通すのが筋であろう。」と吉晴が言うと、

 「何、宿老だと。五奉行がいつ宿老となった。大老である私が何故、配下も同然の奉行如きに報告せねばならぬのだ。」と家康は言い放ったのである。

 吉晴はこれ以上の詰問は困難と判断した。

 「お分かり申した。私はただの使者である故、これ以上内府殿と議論はできません。今のお話を持って、奉行衆に判断を仰ぐこととします。」と吉晴は言うと、徳川屋敷を後にした。屋敷の外には徳川家の兵と藤堂家の兵が満ち溢れていた。

 「まだ、兵が集まってくる。これは大変なことになった。これは、戦になる。」と吉晴は思ったのであった。

 

 その後、徳川屋敷には続々と大名が集まってきた。分かっているだけでも織田有楽斎・京極高次・伊達政宗・池田輝政・福島正則・細川幽斎・黒田如水・長政・藤堂高虎・最上義光らが参集したという。

 一方、大坂の前田屋敷には毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野長政・幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らが集まったというのだ。実は「関ケ原の戦い」がこの時、ここで起きても不思議ではなかったのである。

 

 前田屋敷には四大老と五奉行が集結していた。そこで問罪使として徳川屋敷を訪れた吉晴が伏見の状況を説明したのである。

 「内府殿は、問罪と言う名称に激高された模様で、奉行如きが何を申すかと、怒鳴られました。」と説明すると、

 「事情も聞かぬうちに問罪とは、治部、やり過ぎたのではないか。」と利家は問うた。

 「我ら奉行は亡き太閤殿下から掟を破るものは誰であろうと斬り捨てろと厳命されております。たとえ内府であろうとも、臆するものではありません。」と三成は反発したのである。

 「うむ、然らば五奉行と毛利中納言殿との間に誓書を交わされていると聞くが、それは掟には抵触せぬのか。」と重ねて問われると、

 「あれは五大老の中に意見を異にする者が出た場合、秀頼様のために協力して、これにあたることを誓ったものであり、何ら掟には反してはおりません。」と三成は苦しげに言い訳をした。

 「その話、大老である私や会津中納言殿は聞いておらぬぞ。それは私的誓書であり、徒党を組むことを禁じた掟に反しておろう。」と利家は畳みかけた。

 

 「治部、今は戦になろうかと言う瀬戸際である。大老を蔑ろにして、五奉行ばかりが勝手なことをしておいて、手前の理屈だけを押し並べても、誰も納得しないぞ。内府殿よりそこを詰められたら何とするのだ。」と利家が言うと、「そうだ、そうだ。」と言う大名衆から声が上がった。すると大広間では方々から奉行衆に対する不満の声が溢れたのである。ここに集まった大名衆は利家を慕う者たちであり、五奉行の味方という訳ではなかったのであった。

 

前田利家