天海 (126)

 

 

 

 このような三成の措置を聞きつけた家康は、その日のうちに伏見の薩摩邸を訪れたのである。家康は、多くの人々を集めると島津家の朝鮮の役での戦勝を褒め称え、名馬と名刀を贈ったのであった。この話題は忽ち伏見城下に流布し、多くの人々が島津家の功績を讃えたのである。無論、これは三成に対する当てつけであった。

 

 1月7日、家康忠恒を呼んで大規模な宴会を開いた。さらに1月9日には、利家らとともに島津家五万石の加増を正式に決め、忠恒を右近衛権少将に任じたのである。このような一連の動きは三成を刺激したことは間違いないであろう。

 また家康は、小早川家の越前国移封を取り消し、改めて筑前・築後国59万石に大幅加増したのである。それに伴い、三成は筑前名島城と代官として支配していた筑前の蔵入地を失ったのであった。

 

 1月10日、秀吉の遺言に従い、利家傅役として秀頼と伴に大坂城に入った。そして多くの武将が秀頼に従い伏見から大坂へ移転を始めたのであった。

 

 1月19日、家康は伏見の有馬邸を訪ねていた。すると突然、高虎が兵を引連れて現れたのである。

 「与右衛門、何事であるか。有馬殿に無礼であろう。」と家康は怒気を込めて叱った。

 「誠に申し訳ございません。手の者から内府様のお命を狙う企みがあると聞き、無粋とは存じましたが、罷り出ました。直ちに徳川屋敷にお帰り下さい。」と高虎は言うのだ。

 「おお、そうであったか。それは大義であった。与右衛門、感謝するぞ。」といい、有馬家に謝して、大急ぎで屋敷に戻ったのであった。

 

 「内府様、例の婚礼の件を治部が嗅ぎつけたようです。」と高虎が言うと、

 「そうか、思ったより早かったな。」と家康は微かに笑ったのであった。

 

 家康が徳川屋敷に戻ると正信が出迎えた。

 「殿、奉行衆より問罪の使者がお見えです。待たせております。」というのだ。

 「佐渡、小平太はどこまで来ている。」と尋ねると、

 「まだ美濃あたりかと思います。」と正信は答えた。

 「少し急がせろ。」と家康は命じたのである。

 

 奉行衆の問罪使として中老堀尾吉晴らが派遣されていた。吉晴は、待たせられたことに苛立ちを隠せなかった。家康が大広間に入ると、すぐに「内府様、これは火急のことでございますぞ。」と凄んで見せたのである。

 ところが、家康に続き、徳川家臣が続々と大広間に集まって来て、大広間は徳川家臣で溢れかえった。騒然たる雰囲気に、否応もなく吉晴らは身の危険を感じるようになった。

 

 「茂助、誰にものを申しておる。問罪とは何事だ、聞き捨てならぬ。事と次第によっては、ただではおかぬぞ。」と家康は立ったまま、大音声で怒鳴りつけた。重臣の井伊直政が目配りをすると、家臣らは一斉に片膝を立て、吉晴らを睨みつけた。

 吉晴はその剣幕に気圧されたが、まずはお役目を果たさねばならない。

 「奉行衆の調べにより、内府殿が太閤様のご遺訓を破り、私的に婚姻を図っていることは明白である。どのように申し開きなさるか。」と吉晴は家康を責めた。秀吉は「御掟」の第一条に「諸大名縁邊之儀、得御意以其上可申定事」と定めているのである。

 

 

堀尾吉晴