天海 (134)

 

 

 

 「訴訟は見直す、治部は蟄居させると言っているのだが、全く、聞く耳を持たないのだ。訴訟者の中には与右衛門(高虎)もいて清正らを説得させているのだが、手に負えないそうだ。オレのおひざ元ともいうべき伏見で騒乱が起きたとなると、さすがに面目が立たない。」と家康は困った顔で言う。

 「主張が聞き入れられなければ、内府であろうと捨置かん、と息巻いているようですな。」と正信は楽しそうに話すのだ。

 「オレが困っているのに、お前は嬉しそうだな。」と家康が言うと、

 「もうお答えは、出ているのでしょう。」と正信は平然として言った。

 家康が本当に困ると不機嫌で無言になることを正信は知っているのだ。

 すると、家康はにやりと笑って、

 「うむ、ここは北政所(寧々)様にお出まし願おう。」と言ったのである。

 

 「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない。」

(ルイス・フロイス『日本史』)

 

 高台院(寧々)は豊臣恩顧の大名に絶大な信頼を得ていた。家康の仲介では、三成、清正双方とも、「何か裏がある。」と身構える。しかし高台院の差配であれば、中立で公平だという暗黙の了解があったのだ。

 

 二人にとって高台院は母親同然であり、三成清正も、子供の頃の様に叱られたのである。さすがの二人も鋒を納めざるを得なかった。

 

 「太閤股肱の臣として、その勢威、比肩なし。」(島津義弘)と言われた三成であったが、閏3月10日には五奉行の座を退き、佐和山城に蟄居することになったのであった。

 

 「十三日午刻、家康伏見之本丸へ被入由候、天下殿二被成候、目出候、」(「多聞院日記」)

 

 家康は向島城から伏見城西ノ丸に戻った。その際、留守居役の奉行を追い出したのである。これで伏見城は家康の城となった。

 

 家康は伏見城を守護していた結城秀康を呼んだ。秀康は不幸な生い立ちを持つ家康の次男である。

 「於義丸治部を頼む。佐和山に帰るまでに刺客が放たれるやも知れぬ。あ奴には、まだ死なれては困るのだ。苦労を掛けるが、無事、佐和山まで送り届けてくれ。」と家康は命じた。

 家康直々の命令を受けて、秀康は涙が出るほどうれしかった。

 「はい、命に代えましても、無事に送り届けます。」というと直ちに準備に入った。その顔は晴れ晴れとしていたのだ。

 

 家康は秀康の将器を高く評価していた。この仕事も立派にやり遂げるであろう。だが、彼が三男の秀忠を越えることはない。秀康には幼いころから苦労させて、申し訳なく思う反面、これも、この男の宿命であると割り切っていた。

 秀康三成を護衛して瀬田まで丁重に送り届けた。三成は感謝の証として、正宗の刀を秀康に贈ったという。この名刀は「石田正宗」と称され、秀康の末裔にあたる津山松平家に伝世されていた。

 

 

高台院(寧々)