天海 (128)

 

 

 

 遠山邸には続々と兵糧、武器類が運び込まれていて、蔵の中はまるで武器庫のようである。利景には与力も付けられ、屋敷は500名程の兵で厳重に警固されていた。隣接する加藤嘉明邸は、既に嘉明が大坂に移ったこともあり、暗く静まり返っている。

 

 「徳川屋敷には既に兵が5千人程度集まっていて、さらに続々と増えているようだ。与右衛門様から聞いたのだが、京極宰相が参加しているそうだ。」と嬉しそうに利景が言う。

 「うむ、いち早く南近江を抑えたのは吉兆だ。こうなれば佐和山も迂闊に動けまい。小平太殿も一安心であろう。できれば、伏見城大坂城の中間にある淀城を抑えたいところだ。」と天海は言った。無論、家康もそこに抜かりはなかった。すでに有馬豊を派遣していて淀城を抑えていたのである。

 

 その頃、美濃まで来ていた康政のもとに伏見より早馬が来ていた。康政は江戸から一万人の兵力を率いていたのである。

 「三成らが大坂に集結、先を急げ、とのことだ。分かったか。」と諸将に言うと「おお。」と喚声が上がった。遅参は断じて許されぬ、ここは最早戦場なのである。

 

 利家の病はこの時既に、重篤であった。差し込むような腹痛がたびたび起きたことから、消化器系のがんであったと思われる。秀頼の命と太閤の遺訓を守るためにも、利家はまだ死ぬわけにはいかなかったのだ。

 利家は五奉行を退室させると大老のみで話し合いを行った。宇喜多秀家はまだ若く、毛利輝元には信用がおけない。この大老の中で真面に内府と戦えるのは景勝のみであろう。

 「会津殿、もし私が万全であれば、内府と一戦に及ぶことも厭わないのであるが、あの内府のことだ、すでに手を打っているであろうな。」と利家は景勝に問いかけた。

 「はい、すでに江戸から一万ほど兵が上洛しようとしております。淀城も抑えられていて、既に臨戦態勢でございましょう。」と景勝は無表情で言った。康政率いる徳川上洛軍の存在は誰も知らなかったので一同は大いに驚いたのである。普段は寡黙で何も言わない景勝であるが、東国の動きはいち早く掴んでいるのだ。情勢が思わしくないことは景勝の表情で分かった。

 

 上杉家在京料として10万石を与えられていて、取り敢えず3千ほどの兵はいつでも動かせるが、他の大名はそうはいかない。前田家宇喜多家も国もとから呼び寄せなければならないのだ。その頃には内府は3万を超える兵を集めているであろう。

 「ああ、なるほど、我らは嵌められたという事か。ここは一旦、鋒を納めねばなるまい。」と利家は嘆息したのである。

 

 1月29日、康政が兵を率いて上洛した。伏見城は夜間も篝火を焚き、まさに臨戦態勢となったのである。

 その頃、吉晴が利家の使者として伏見を訪れていた。今後は互いに齟齬のないよう五大老、五奉行が改めて誓紙を交わそう、と言うのである。

 

淀城

『〔日本古城絵図〕 畿内之部』1 山城国淀城絵図,写,〔江戸中期-末期〕. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286152 (参照 2024-03-22)