天海 (140)

 

 

 

 家康は護衛を厳重にすると、9日には大坂城に登城して秀頼母子に謁見した。

 

 『関ヶ原軍記大成』という書物によると、まず大坂城千畳敷廊下土方雄久家康に斬りかかり、大野治長がとどめを刺す、という段取りであったという。しかし家臣に守られた家康を襲うには、あまりに稚拙で、成功する見込みがない計画である。どうもこの本の記述は信用できない。

 この時、浅野長政は、伏見にいて重陽の儀のために、9日大坂に下向したようである。家康暗殺の主犯であればもう少し早く大坂に入り、詳しく段取りを詰めるべきであろう。長政がこの計画に関わったとは、どうにも考え難いのである。

 

 そもそも、3人は暗殺計画自白し、罪を認めたのであろうか。もしそうなら間違いなく、死罪である。ここから逆算すると、恐らく3人は罪を認めなかったのであろう。実行されていない暗殺計画なのだから、証拠もなかったに違いない。

 「疑わしきは罰せずは現代の原則で、為政者に疑惑を持たれるだけでも、罰を受けることは十分にあるのだ。それにしても、なぜ増田長盛長束正家は家康にこのような讒言をしたのであろう。ここに答えがあるはずだ。

 

 浅野長政は当時、三成と激しく対立していて、長盛や正家とも敵対関係にあった。三成は淀殿らの信任が篤く、長政は大坂城内で孤立していたのである。長政は家康と親交があり、奉行衆の中では「家康擁護派」であった。

 三成の失脚によって、大坂城内の権力構造に変化があり、長政の台頭を恐れた長盛、正家が、家康に讒言を行ったのであろう。

 

 長盛、正家の話を聞き終えた家康は、「よくぞ、教えてくれた。」と二人に感謝すると、「調査の上厳罰に処す。」と明言したのである。

 

 二人が帰ると、家康正信、康政及び在番勤務で上洛してきた忠勝とともに善後策について話し合った。

 

 「阿保らしい。浅野弾正様が何でわしらの殿を暗殺するのだ。讒言にしても幼稚だな。」と忠勝は吐き捨てた。

 「うむ、恐らく殿を利用して邪魔者を排除しようとしているのであろう。浅野紀伊守(幸長)様は加賀中納言様の妹様と婚約中と聞きます。加賀様が大坂城に入れば弾正様のお力が強くなり、自分たちの立場が危ういのでしょう。」と康政は推し量った。

 「どうだ、佐渡、何か悪いことを思いついたか。」と家康に問われて、

 「はい、これは良い機会を得ました。この機会に加賀様を屈服させる手立てを考えましょう。」と答えた。

 3人は「ほう~。」と感心した。

 

 「実はオレもそれを考えた。ただ気を付けねばならぬことがある。弾正ら3人の立場は相当危うい。これは関東に保護する必要があるぞ。このままでは間違いなく大阪方に殺されるであろう。」と家康は付け加えた。

 「なるほど、さすがでございます。そこまでは思い至りませんでした。」と正信は首を垂れた。

 「だから、いつも言っておるであろう、オレは仏の家康だと。」

 そう言うと家康は呵々と笑ったのである。

 

 

長束正家