天海 (122)

 

 

 

 家康義久邸を出ると、その足で幽斎のもとを訪ねたのである。幽斎は薩摩の内情を詳しく知っていた。

 

 「龍伯殿は表裏があり、なかなかの食わせ者ですぞ。薩摩は老中の合議といえば聞こえはいいが、私に言わせれば、誰も彼も無責任なのだ。」と穏和な幽斎にしては珍しく辛辣である。

 「龍伯殿は、配下の者に、お殿様としていい顔をしたいのであるが、その一方で問題が起きれば家臣に責任を撒擦り付ける。自分には責任が及ばぬように、のらりくらりといつまでも態度を決めない。最後はくじを引いて神頼みだ。」と幽斎は怒気を込めて言う。この幽斎をここまで怒らせるのだから、相当なものなのだろう。

 「忠棟殿が憎まれ役を買っているのも、島津家を存続させるための捨て身の奉公であろう。本来なら龍伯殿がやるべき仕事である。今度はその忠棟殿に責任を押し付けようとしているのだ。」と幽斎は憤るのである。 

 

 家康は、うむうむ、と頷くと、「それは分かる。」と言った。

 「しかしながら、義弘公がお家のため朝鮮で血を流している間、その者は何をしていたのか。8万石もの知行を受けながら、自らの軍役さえ果たさなかったと聞く。幽斎殿のお怒りも良く分かるが、忠棟と申す男、裏があるように見える。」と家康は言った。

 「裏と言いますと。」と幽斎が尋ねると、

 「話の出所は申せませぬが、忠棟は治部の指示で動いているという。治部は島津家の義久・義弘の正当な後継である忠恒殿を、己が権力のために毒殺しようとしているという。」と家康は言った。

 「お待ちくだされ、流石にそれはないであろうと思います。確かに治部殿の手先となって動いていることは間違いありませんが、よもやそこまでは…。」と幽斎が慌てて言うと、「やはり治部の手の者、という事ですな。」と家康は念を押す。

 

 幽斎はため息をつくと、「家臣も同然でございましょう。あれだけの猛将である義弘公がもう少し国内を治めてくれれば一番良いのですが、あの方は、老中どもを抑えることが出来ないのです。ただ気性が激しい忠恒殿なら家中を治められるかもしれません。」と言ったのである。

 

 細川邸を後にすると、家康は康政に、「島津家は当初、差出検地石高は21万石余りとのことであったが、この度の三成の検地で57万石となった。」と笑いながら言うのだ。

 康政は苦笑いをすると「実に嘘偽りの多い国の様ですな。」といった。

 「うむ、あの地を治めるのは容易ではないぞ。島津一族は100家余りもあって、国の隅々にまで行き渡っている。よそ者が入ってもあの地を治めることは困難だ。だから島津家には立ち直ってもらわねば困る。…無論、三成抜きでな。」と言うとにやりと笑ったのである。

 康政は「何かお考えがあるのだろう。」と思ったが、あえて聞かなかった。 

 「どうやら自分の仕事ではない。これは、おそらく本多正信あたりの仕事であろうな。」と思ったのだ。

 

都城大手門(伊集院家)