天海 (136)
「京都大坂は今きな臭いので、できれば行きたくないのだが、内府様のご命令となれば致し方あるまい。」と庄兵衛は小声で言う。
為信は大きく頷き、「私もそのお福という方に是非ともお目に掛りたいです。」と言った。
為信は背が高く痩せ気味で、相貌は若い頃の庄兵衛によく似ていた。実はこの為信の娘こそが、後世、大奥を差配した三沢局である。
二人が伏見の遠山邸に入ると、利景と天海が出迎えてくれた。
「呼び出して済まなかった。伏見もようやく小康を保ったところなので一安心だ。おぉ二代目も来たか。庄兵衛、まさか隠居する気ではあるまいな。」と天海はからかい気味に言う。
「あぁ、庄屋としての仕事は粗方引き継いだのだが、大切な裏家業があって、こいつが、なかなか隠居させてくれんのだ。」と天海に皮肉を言う。
「男は仕事がないと、すぐにお陀仏だからな。そこは感謝してもらわねば困る。」と天海は嘯いたのである。
邸内に入ると、天海、利景、庄兵衛、為信はすぐに打ち合わせに入った。
「具体的にはどうすればよいのだ。」と庄兵衛は尋ねた。
「うむ、まずは徳川方の連絡役であることを認識してもらう。そこで本多佐渡守から書状を頂いた。内容は“この者は徳川家の大事な使者であるから大切にせよ。”というくらいの内容だ。」と天海が言うと
「つまり、取次役という事か。明智一族であることを知らせて良いのか。」と庄兵衛が問う。
「お福との関係で、説明せざるを得ないだろう。明智一族が内府の保護を受けていること、それに天海と言う謎の僧侶が内府の側にいることも伝えて良いぞ。」というと、
「自分で自分を謎と言うな。」と庄兵衛が笑う。
「その方が霊験あらたかで、有難いであろう。」と天海も笑うのだ。
利景と為信は、相変わらずの二人に呆れていたのであった。
小早川家は桓武平氏良文流の子孫である。元は相模の御家人で、安芸国沼田荘の地頭となったことから、安芸の有力国人となり、戦国時代には大内家の傘下となった。天文12年(1543年)に毛利家より元就の三男・隆景が養子に入ってから、兄・吉川元春と共に「毛利の両川」として、全国にその名を知られるようになる。
小早川隆景は名将として知られている。豊臣政権になってからは、四国征伐で、伊予国を与えられ、独立大名となり、九州征伐後は筑前国名島35万石を領し、五大老の一人にまで上り詰めたのである。
秀吉は羽柴秀俊(後の秀秋)を毛利本家の養子にしようと画策した。実子のいなかった隆景は本家を守るため、秀俊を小早川家に迎い入れたのである。
隆景死後、家督を継いだ秀秋は慶長の役で総大将となったが、帰国後、秀吉の勘気を蒙り、大幅な減封処分を受ける。この減封により、小早川家は多くの優秀な家臣を失った。家老・山口宗永は秀吉直臣となり、古くからの家臣であった高尾又兵衛や神保源右衛門らは、三成の家臣となったのである。
現在の小早川家には稲葉正成、平岡頼勝が付け家老として秀秋を補佐していた。秀秋はこの年、漸く17歳となった。幼少の頃から秀吉の甥として、目まぐるしい運命の転変を経験してきた。このためか、既にアルコール依存症であったともいう。
小早川秀秋