語られることのない責任 & 『中国歴代西域紀行選』 | Hiroshiのブログ

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今後不定期投稿となります

<数値目標>

https://www.youtube.com/watch?v=RBvTiSELGqs&list=PLrWxcegPNiyj-M05glrorpUrXekNDKejm&index=6

HSK2~3 #4~#6 背了四十分钟单词。

 

https://www.youtube.com/watch?v=swgUjw9LD0s

知香ChinaTV,看了九分钟China频道

 

https://www.youtube.com/watch?v=VqcEC3eww78

誰でも簡単!ネイティブ中国語専門チャンネル,6h1min~end,听写一个小时十六分钟。

 

https://www.youtube.com/watch?v=QDvTvGMNg2o

看了十六分钟興梠频道

 

https://www.youtube.com/watch?v=93VZUEQE5xk

【完全版1~1200】HSK5,1h5min~1h15min,0.75速度,x2,背了四十分钟单词。

 

https://www.youtube.com/watch?v=UiB19H7Em6w

李姉妹ch、看了十一分钟李频道。

 

https://www.youtube.com/watch?v=39uFTc8xQ0s&list=PL9C3D1AAF2BEA5F2D&index=9

カエル、7~9,学习二十二分钟汉语文法。

 

https://www.youtube.com/watch?v=aJux6xNMGM8

チャイナ娘くまちゃん,看了六分钟的频道。一共三个小时四十分钟。

 

运动;一堂Salsa课(计划)

 

 

 

 

<敗戦>

昨日15日は終戦記念日。地元では正午にサイレンが鳴った。戦後世代としては一族に戦没者は知らない。只、話に聞くとことによると叔父さんが学徒出陣で、ビルマで消息を絶ったという話だけ。あの飢餓街道で、あるいはその後の終戦までの1年の敗走途中のどこかで行き倒れたのかもしれない。

https://ameblo.jp/bigsur52/entry-12815698611.html

 

多くの若者を死地に送り出し、内地でも多くの死者を引き起こした。更に東アジアの国々を侵略したことで、現在も大きな「負の遺産」を残し続けているあの戦争。その戦争指導者が戦後も多く、おめおめと生き延びていたことに怒りを感じる。

 

軍人ならば、政治家ならば、責任を取り自決するのが当然だろう? 中には岸のように敵国(CIA)に協力したことで自分の戦犯としての罪を帳消しにしただけでなく、政治権力を維持、拡大した輩もいる。

 

その詳細は戦後極秘扱いが解除され公開された米国資料に詳しい。概略は1994年のNY Timesに掲載されている。題名も“CIA spend millions to support Japanese right in 50’s and 60’s”だ。

https://www.nytimes.com/1994/10/09/world/cia-spent-millions-to-support-japanese-right-in-50-s-and-60-s.html

 

ここから、岸-安部一族に脈々と流れる共通の権力・利権構造を感じる。

 

 

語られることのない責任

 

付け加えると、不問にされた、存在。即ち昭和天皇についても戦争責任が無かったとは思わない。否、確実にあったはずだ。実際、1957年にそれについての「天皇メッセージ」なるものが存在する。このことは殆ど知られていない。

 

 

再度引用しておこう。

 

『…the Emperor hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus. In the Emperor’s opinion, such occupation would benefit the United States and also provide protection for Japan.…』

General Records of the Department of State, Central File, 1945-49 Box No.7180 Folder No.1【0000017550】
https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4730
 

これが事実だとするならば、天皇は敗戦後も日本の外交、軍事に深く関わっていることになる。決して《飾り》だったわけではない。

 

エリアーデを引用するつもりはないが、当時国家神道の象徴として、シャーマンの役割を持った昭和天皇は、その力を失った時、少なくとも象徴的な「死」が要求されるべきだった。またそうしてこそ「再生」は可能になる。これは天皇制を否定するからではなく、むしろ天皇制を正しく維持する為にも必要だった。その機会を(米国の意向により)失ったことは実に残念。


 

 

 

<遠心力を上手く使う>

Marc Anthony のValio la penaは好きな曲の1つだが、これでこんなsexyなダンスが踊れるとは! 遠心力を上手く使うことを覚えないといけないね。これは何時も心がけている事だけども…

https://www.youtube.com/watch?v=0b7iqlziMdI

 

今日のクラスでは新しく購入した靴を始めて使ってみたい。

 

and Nice talk

 

 

 

 

<地元の自然災害碑>

14日午後、地元の自然災害碑の実地検分に行った。暇な年金生活者の記録。

 

これまで散歩コースで災害碑というわけではないが、災害により昔の碑石が損傷したことで新たに作られた碑があることは知っていた。またそれ以外にも土石流?の災害碑があることも知っていた。今回Web検索で1つ新たに別の災害碑があることを発見した。

 

見つけた資料は災害碑というわけではなく、地元の仏石像や、それ以外の様々な記念碑、歴史的史跡等を調べたもの。図中の上、灰色で22番の地点。地形図からも幾つかの谷間の出口に位置する。如何にもと言う感じ。

 

場所は障子岳四丁目ということらしいので早速、ナビを頼りに現地に行ってみる。

 

簡単に見つかる。かなり立派な石碑。昭和25年に建てられた災害復興記念碑。横はすぐ宇美川上流で、ここで氾濫したのだろう。

 

今はコンクリートで川の両側は整備されている。現時点では水量は僅かだが、多分集中豪雨ともなれば、地形から今でもかなりの水量になるに違いない。

 

Google Earthでみると右上の谷間にむき出しの地形が見える。問題はこんな場所にも新築の家が幾つも建てられていることだ。そんなに大昔ではないのに住民はこの水害(土石流?)のことを知らないのだろうか?

 

碑裏の記載によれば、昭和24年に襲ったジュディス台風(如何にも戦後直後の表現)の被害の復興記念碑。

 

次に行ったのは先に紹介した1973年の土石流での被害の復興記念碑。これも土石流だろうか? ここらには人家は少なく、あるのは工場だとかトラックや建設機材の類の駐車場。特に問題はないだろう。

 

 

次に行ったのは、散歩コースの1つ。私がここに平成元年に移住してから何度も水害に見舞われた場所。災害記念碑ではないが神仏像が水害で流され、それを再建した旨が裏面に書かれている碑。この周りにもドンドン新築の家が建てられている。この石碑のすぐ横は宇美川。

 

 

 

というわけで、少なくとも3カ所の自然災害碑が町内にある。多分。それ以外にもたくさんあるのではないか? 今後も折に触れ探索してみたい。こうした記録は大切にすべきだと思うのだが、検索した限り、役場のHPの何処にも記載はない。

 

情報共有・広報が必要だと思うのは、こうした地区にどんどん新たな団地が建てられているから。自然災害の時間と人の時間はスケールが違う。

 

 

 

『NATOを知るための71章』はまだ半分以上残っているが、その間読み上げた本を忘れないうちに記録しておく。

 

『中国歴代西域紀行選』

渡辺義一郎著、ベースボール・マガジン社、1997年初版。

 

出版社と本のタイトルに違和感があるかもしれないが、これは著者の渡辺氏がクライマーで主に中国の奥地の山岳登山を専門とした人だからの様。

 

穆天子伝:

これが『穆天子伝』の本邦初めての翻訳だとか。紀元前11〜10世紀、周の5代、穆王の西域遠征の記録。初めて聞く話。西晋の頃に(AD281)戦国魏の襄王の墓が盗掘にあい大量の竹簡が見つかり、それを西晋の武帝の命で纏めたものらしい。p5

 

『穆天子伝』をweb検索してみると「歴史というよりも、むしろ小説の元祖だ」だとか「史実と伝説が混在している」という評価もあるよう。youtubeで関連動画を発見した。

https://www.youtube.com/watch?v=5LIVDgoAU44

 

またAK氏によれば西域と言っても現在の山西省あたりだという考えもあるらしい。それなら納得がいくが、この記述 (特に地名や山の名前とか) との矛盾はないものか?

 

兎に角、日程が細かく記されて、そこここを支配する人々から歓待を受け、いろいろなものを献上される記録が続く。献上されるものとしては家畜、玉、酒が多い。何となく遊牧社会的。

 

『赤烏(せきう)の出自は周と同じである』という一節があるが、p15 この赤烏は遊牧民のよう。理由は馬、羊、牛などを大量に献上しているからだ。もしそうなら周も出自は遊牧民となるのか? 

 

なお赤烏は美人の多い土地だとも書かれている。ならばペルシャ西域系のような気もする。添付された図からは新疆ウイグルの西の端まで、天山山脈の西の端、現在のキルギスのイシククリ湖辺まで行ったことになっているし、p11 西北1万4千里まで移動したということになっているが、何処まで真実かは不明。p26

 

以前読んだ本に、古代の軍事国家は西の騎馬文化、文明によると書かれていたが、周もその流れを汲むものか?

  

使于闐(和田)記:

唐王朝滅亡後の五代・後晋の高宗時代に于闐王に冊封する使者の記録記。時代はAD938年、ここらになると史実に近いだろう。特に印象に残ったものはなし。