Vol.985-2/3に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-県都編:13<楠尾神社>
<21.楠尾神社> <撮影:2016.10.16>
<由緒>古代讃岐の忌部の祖、手置帆負命が当国の国造であった時、国の平和を祈る鎮護神として小祠を祀り、命の次子、手置日下大人道長を宮仕えと定め、楠尾の宮と崇め奉った。そのころ社辺に楠大木数多繁茂し、朝廷の造船用木に献上したとも伝えられている。別名「甲朕の宮」の号がある。
仁徳帝の御宇、霊異があり、さらに欽明天皇の御宇には光り物が飛来して楠枝に留まり、三日三夜光り輝いたので、人々大いに驚き社殿を造営し、後に八幡神を合祀してこの地の氏神になったともいう。仁和二年(西暦八八六年)に社が再建され讃岐の国司菅原道真が奥谷に庵居を置いて当社を尊崇、境内に<池ノ房庵>を建てた。このころ、南の下乗石を再建し、当社は大社になっていたようである。鳥羽帝の保安年中、讃岐守藤中納言家成が一女に宮仕えさせて尊崇した。天正十年(一五八二年)長宗我部軍の来襲によって当社もその戦火に遭い、社殿・宝物記録等を焼失し、神宮・諸役の社人・社僧のほとんどが離散した。その上、社領の田地は、国主尾藤氏に没収されて大半を失った。生駒家の代となり、一正は家老安芸肥後に命じて社殿を修造し、社領を付し市立ての広場まで開発したことが「全讃史」に記されている。
天和元年(一六八一年)八月に大洪水あり五間四面の本殿と社殿は風雨のために倒壊したので再建した(社記)。
<所在地・外観>
▼楠尾神社(くすおじんじゃ)-高松市国分寺町新居3372
▼楠尾神社-鎌倉時代の経塚がみつかる新居郷の中心
袋山(ふくろやま)から東西に延びる丘陵の先端で、標高約53mの所に「楠尾神社」がある。
<概 要><歴史遺産>
▼袋山と楠尾神社
JR端岡駅前から県道33号線を東北方向へ約500m行き、三差交点を左折すると、北に延びる楠尾神社の参道口に着く。
▼楠尾神社の参道-1
▼楠尾神社の参道-2
▼楠尾神社の参道-3
▼楠尾神社の参道-4
▼楠尾神社の参道-5
▼楠尾神社-境内
▼楠尾神社-拝殿
▼楠尾神社-本殿
神社まで上がると見晴らしが良く、国分寺町東南部を見渡せる。
▼楠尾神社-境内からの眺望、参道石段途中からの眺望
社記によれば、上古、忌部日下大人(くさかのうし)と呼ばれる人物が、玉依姫命を祀って当社を建立したと云う。古くからの阿野(あや)郡新居(にいのみ)郷(「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」)の産土神であった。付近には倉内(くらうち)・宝庫(たからだて)・散楽田(さるがくでん)などの地名があり、大社だった頃を偲ばせる。
▼楠尾神社-田村社、地神社
▼楠尾神社-恵比須社、三神社
▼楠尾神社-畝尾社、龍田社
▼楠尾神社-南の鳥居、北の鳥居
楠尾神社経塚出土遺物は、明治23年(1890)の楠尾神社の社殿拡張時に、現在の本殿の裏山から出土したもので、その内容は、銅板製経筒7口、陶製容器6個、和鏡1面、直刀残欠2片である。
経塚自体は既に失われており、構造は不明であるが、銅製の蓋付の経筒を1口あるいは2口ずつ陶製の外容器に入れて埋納したものと考えられる。外容器の組み合わせから複数回に亘って経塚造営が行われた事が想定されている。記年銘などの年代を設定する資料が無いものの、近畿地方の事例などからおよそ12世紀後葉から13世紀前葉ごろに経塚が造られたものと考えられている。「讃岐国名勝図会」の「楠尾八幡宮」の挿絵には、本殿裏山に「宝塚(たからづか)」と記されており、江戸時代末期に既にその存在が知られていたようであるが、現在は完全に消滅している。
▼楠尾神社-経塚遺物(web引用-水彩画風変換)
<関連遺産>
楠尾神社の南東約150mにある大善寺(だいぜんじ)の東に立つ「摩尼輪塔」は、月輪の中に胎蔵(たいぞう)界大日如来の種字(しゅじ)が薬研(やげん)彫りされ、方柱部分には「下乗」の文字が刻まれる。
▼大善寺
▼摩尼輪塔-1
▼摩尼輪塔-2
▼摩尼輪塔-3
白峯寺参道の下乗石(県文化)との関連が伺われる。中世下乗石の例としては貴重なものである。
地元では月輪の形から、「たいこ神さん」と呼ばれている。
▼白峯寺参道の摩尼輪塔と下乗石(県文化)
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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