Vol.1031-4/4 R巻頭-143。気ままniフォトSketch<香南町岡> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.1031-3/4に続けてご覧ください。

 

▼高松空港(滑走路)を後にして専妙寺へ向かう(約1.4km・標高差60mを下る)、山間の道を東方向に進む-1

 

▼山間の道を東方向に進む-2

 

▼北方向の風景、山間の道を東方向に進む-3

▼山間の道を東方向に進む-4(次の交点を左折)、山間の道を北西方向に進む-1

 

▼山間の道を北西方向に進む-2

 

▼山間の道を北西方向に進む-3

 

▼上空の送電線

 

▼左下に東部浄水場の配水池、山間の道を北西方向に進む-4

 

▼右奥に屋島と五剣山が見える、五剣山のズーム景

 

▼山間の道を北西方向に進む-5、左に東部浄水場の配水池

 

 

▼山間の道を北西方向に進む-6(次の交点を右折)、専妙寺へ進む-1

 

▼専妙寺へ進む-2

 

▼国道193号線が見えて来た、専妙寺へ進む-3

 

▼専妙寺へ進む-4

 

▼専妙寺へ進む-5

 

▼専妙寺へ進む-6、専妙寺の石段登り口に着いた

 

 

フォトSketch-専妙寺

<由緒>土佐の国辻郡の住人土居家政入道が嫡子小市郎秀政、応永年間讃岐の国に移り、安原奥源山を切り開いて居住していた。家政は人望もあり法義にも通じ人々に信仰を説いたものと見えて、時の人々は家政を土佐法師と尊称するようになっていた。正長元年(1427)現在の場所に一宇が建立され土佐法師が迎えられた。堂は「改邪鈔」の中で祖師親鸞上人の仰せの如く「ただ道場をば少し人屋に差別あらせて、小棟をあげて作るべき」のご趣意の通りつつましく作りなされたものであろう。家政は法号を永正といい時に歳五十六歳であった。京都興正寺門跡に帰依し、その末流となった。
二代目正圓の時代延徳二年(1460)蓮如上人筆六字名号一幅を拝領し寺を専妙寺と号する様になった。

当寺本山(仏光寺)では、門主が性雲・性善・光教・蓮教となっていた。蓮教は本願寺蓮如に傾倒し、一部末寺をたずさえて本願寺に投じた。人も知る真宗中興の善知識蓮如は、末流一寺の住職正圓のために、寺号を撰び自筆の名号を与えたという。(香南町誌など)

 

▼専妙寺-1

▼専妙寺-2

 

▼専妙寺-3

 

▼専妙寺-4

 

▼専妙寺-5

 

▼専妙寺-6、二十四輩など石仏八十体へ進む

 

▼専妙寺-7

 

▼専妙寺-8、境内に戻る

▼専妙寺-9

 

▼専妙寺-10

 

▼専妙寺-11

 

▼専妙寺を後にして帰路のバス停「岩崎」へ向かう(約1.0km)、国道193号線沿いの歩道へ進む

 

▼国道193号線沿いの歩道を南方向に進む-1、後方に専妙寺が見える

 

▼右に高松空港滑走路から下って来た山道が見える、国道193号線沿いの歩道を南方向に進む-1

 

▼国道193号線沿いの歩道を南方向に進む-2

 

▼国道193号線沿いの歩道を南方向に進む-3、前方に香南町清水交差点が見えて来た

 

▼国道193号線沿いの歩道を南方向に進む-4、香南町清水交差点を左折

 

▼香南町清水交差点の前方奥に高松空港進入灯橋梁が見える、塩江街道を東南方向に進む-1

▼塩江街道を東南方向に進む-2、香南町岡交差点を直進

 

▼前方奥にAIR SEOUL「RS742便」が着陸態勢で通り過ぎる、バス停「岩崎」へ進む-1

▼バス停「岩崎」へ進む-2、バス停「岩崎」に着き帰宅の途に就いた

 

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀