Vol.1030-2/4に続けてご覧ください。
▼高根通りを北方向に進む-9(右奥に政所池)、右奥に政所池(まんどころいけ)に寄る
▼政所池の記念碑へ進む-1
▼政所池の記念碑へ進む-2、政所池の記念碑に着いた
▼政所池パノラマ景
▼政所池から見る高松空港の遠景(直線距離3.5km)、高松空港のズーム景
▼政所池から見る香南小・中学校の遠景(直線距離0.9km)、香南小・中学校のズーム景
▼高根通りに戻る、高根通りを北方向に進む-10(香南町吉光に入った)
▼高根通りを北方向に進む-11
▼右(東)方向の香川第一中の遠景(直線距離1.7km)、香川第一中のズーム景
▼後方の政所池の堤体、高根通りを北方向に進む-12(次の交点を左折し小田池へ進む)
▼香南町吉光を西方向に進む
▼次の交点を右折、香南町吉光を西北方向に進む-1
▼左は㈱日興サッシュ製作所空港工場、香南町吉光を西北方向に進む-2
▼香南町吉光を西北方向に進む-3、左(西)奥に小田池の堤体が見えて来た
フォトSketch-小田池
小田池は、県内屈指の貯水量を誇るため池です。江戸の初頭、梅雨の長雨により築造途中の小田池の堤防があちこちで崩壊して、池の完成 を目指す普請奉行をはじめとする人夫達を苦しめていました。そのころ、伊勢から派遣され、讃岐の国の治水利水の政務を任された西嶋八兵衛が築造に途中から加わり、当時としては非常に卓越した水利土木技術を駆使し、最終的に7カ年を要した池の工事は無事に完成しました。この築造工事には悲しい言い伝えが残っています。時は江戸初期。『人柱』を立てなければ 長引いていた築造工事が完成しないとの思いが人夫達に広がっていました。そのため、雨の日に、たまたま工事現場を通りかかった奥方と女中が捕らえられて、池に埋められてしまったそうです。池の完成後、人夫達により奥方は池明神として、女中は諏訪明神としてそれぞれ祭られたということです。西嶋八兵衛による築造後も、数回の増改築が重ねられてきています。また、池の水は直接的な流域だけでは十分に受益農地を潤すことができないので、小田池の東に流れる香東川を高松市の旧香南町由佐で堰き止めて、約 5kmにも及ぶ水路で導水をしています。川内の井堰は当初、土砂造りであったので洪水の度に破損決壊してその補修費用が池関係者を長年苦しめていました。
戦中戦後を含めた13年の歳月をかけて、昭和31年(1956年)にコンクリート造りの井堰と導水路が完成しました。その後の昭和49年(1974年)には香川用水の通水により、江戸初期から続いていた水に対する不安や多大な出費がやっと解消されました。池を見下ろす諏訪山にある諏訪明神と、堤防に寄り添うようにたたずんでいる池明神。これらの明神様も小田池に刻まれた長い苦しい水の歴史をしのんで、先人たちの偉業に敬意を払いながら、小田池に飛来する水鳥達を見守っていることでしょう。(香川県HP)
▼香南町吉光を西北方向に進む-4(次の交点を左折し小田池へ)、小田池へ進む-1
▼小田池へ進む-2、小田池に着いた(正面上は猿田神社)
▼猿田神社
▼小田池の堤頂へ上がる、小田池の堤頂を西南に進む-1
▼左下に猿田神社、小田池の堤頂を西南に進む-2
▼小田池パノラマ景-1
▼小田池の堤頂を西南に進む-3、小田池
▼小田池の堤頂を東北方向に戻る、小田池の堤頂を北西方向に進む-1
▼小田池の堤頂を北西方向に進む-2
▼小田池パノラマ景-2
▼小田池から見る高松空港と香南小・中学校の遠景、高松空港ズーム景
▼小田池から見る香南小・中学校ズーム景、五岳山(善通寺市)ズーム景(直線距離23km)
▼小田池の堤頂を北西方向に進む-3、小田池のソーラーネル群-1
▼小田池パノラマ景-3
▼小田池の堤頂を北西方向に進む-4(川部町に入った)、小田池のソーラーネル群-2
▼小田池の堤頂を北西方向に進む-5(右奥に記念碑)、小田池の記念碑群
▼小田池の堤頂を北西方向に進む-6、堤頂の下部に小田神社が見える
▼小田池パノラマ景-4
▼小田池の堤頂を北西方向に進む-7、右(北)方向の高松自動車道の遠景(直線距離5.6km)-奥に勝賀山と石清尾山
▼小田池の堤頂を北西方向に進む-8
▼小田池の堤頂を北西方向に進む-9(右奥に正音寺・諏訪神社)、正音寺・諏訪神社のズーム景
▼小田池ふれあい広場-1
▼小田池ふれあい広場-2
▼小田池パノラマ景-5
▼小田池ふれあい広場-3
▼小田池パノラマ景-6
引き続き、Vol.1030-4/4をご覧ください。