農家の結婚11
浅野侯は最後の殿様と云われ、大名行列を経験したとして色々な話を残し貴重な資料となっています。しかし、この方も殿様らしく逸話が沢山あります。今回はその紹介です。浅野侯は生涯洋数字を読まなかったそうです。カレンダーも、数字を書き換えさせて、漢数字で壱、弐、参と墨で書かせたそうです。大正時代に、15銀行の頭取をした時が有りますが、その時も銀行が侯にお見せする書類は、全て、漢数字に変えて提出したといいますから、大変な労力が必要であったでしょう。日記もそうで、イタリア公使になって赴任し、アメリカにも行ったのですが、その日記もそうで、漢数字に書き換えていたそうです。又、浅野家の下屋敷は原宿にありました。維新の時には、浅野侯は広島から2人の御住居(将軍の娘で浅野家に嫁入した正室)を抱えて、広島から船で川崎まで来てそこから駕籠を連ねて原宿の屋敷に来たそうです。大勢の家来を抱えて、これからどうなるのだろうと思ったそうです。下屋敷には、大きな池が有って沢山の鯉が居ましたが、明治神宮造営の為に大きな鯉だけは移したが、取り切れずに埋まってしまったそうです。そこが明治神宮の参道になったが、以前は、大きな山の上に東屋があって、栗の木があり、秋には栗拾い、春には土筆が取れました。日清戦争の時には、大本営になって明治天皇が滞在された。その時、侯は毎日天機を伺い、せめて天皇の心を慰めようと毎日御座所の床の間の掛軸を取り替えて上げたそうです。その頃は、雪舟の物だけでも十何本と云われるくらい持ってましたので、それらの掛軸を天皇は大変楽しみにしていたそうです。そして戦争が終わり軍人などに恩賞や勲章が与えらえましたが、その中に戦争に関係の無い侯が入っていたのです。何でも、それはお上が特にと云われて特例として叙勲された。当時、侯爵の正2位でしたが、従1位になりました。それ以来、一位様と呼ばれるようになったのです。中里の御屋敷に居た時ですが、時々、屋敷には狸が出ました。或る時、一位様の後ろにちょこんと座っておりまして、若い女中などは驚いていまて悲鳴を上げましたが、一位様は、ちょっと振り向かれ、「おお、狸か」と云われただけでした。しかし、中里からは尾久や谷中辺りは一面の田圃で筑波山がよく見えましたお湯殿に置いてあった侯専用の股白粉(天花粉)を若い女中が知らずに付けたことが有りましたが、「これは、マタ(股)にかけた目出度い、祝え、祝え」と仰せになりました。幕末の頃の大名や武家は、普通、紋付羽織姿だったそうで、浅野侯が初めて上野の西郷像を見た時に仰ったのは、「気の毒に、このような姿での」という言葉でした。普段着の姿で人前に出されて、気の毒だな。という意味でしょう。侯は、自分の前か後ろに人が立っていないと、何となく物足りないようなさびしい気がする」といってました。