江戸の婚礼 - 豆本三昧我褸芥(がるぁくた)ノート & 美人画あれこれ

次に、結婚後のお初便りがあります。

嫁に行って数日後のお日柄の良い日に、里へ手紙を出すのが

「初便り」と云いました。

 

この便りを書くことについて問題なのは、奉書に毛筆を使い

候文を書く事です。

内容そのものは通常の書状ですが、これが厄介なのです。

江戸時代でしたら、問題も少なかったでしょうが、明治になると

少し縁遠くなっています。

 

その手紙を書いて文箱に入れて使いの人が持参します。

すると里の母が、返事をその文箱に入れて、再び、使者に

持たせて返すという儀式でした。

 

しかし、抜け道もあるのです。

前以て書いておくのです。

「おたあ様がお手本を書いてあげますから、今日書いて

仕舞いなさい」と云われ、一生懸命書いたそうです。

 

そして、嫁入して4,5日経つと義母がお日柄が宜しいので

「初便り」を書いたら如何ですか。」

奉書にいきなり書くと難しいので、おたあ様が見て上げますと

云われ、困ってしまい。実はもう書いてきました。

と見せたら大笑いされました。

 

又、里の母に「嫁に行ったら里はこうだったとは言ってはいけません。

御家風に合わせる様に云われたので、実家では、こういう場合は

どうしたのと聞かれて、「如何でございましたかしら」と

知らぬふりしていたら、内も教えてないのね、と云われ、

母が気の毒になって、実は聞かれたら「存じません」と答える様に

云われてます。と云ったら、又、大笑いになりました。

こうした失敗が許されたのも、私が16才という若さであったから

でしょう。

 

新婚旅行は関西に行きました。

こういう旅行や出産の時のように長き家を空ける時は、

床の間に「長熨斗」を三方に乗せてお祀りました。

 

この旅行にも、表の職人と奥の女中も一緒でした。

今の人は変に思うのかもしれませんが、私たちは

邪魔だとも思いませんでした。

 

里帰り

大名の里帰りというものは、滅多にしなかった。

今の高崎の大河内家から嫁いだ方ですが、年に1回

正月に帰られましたが、その時、義母に、あの方の御挨拶は

長いから先に頭を挙げないで、という注意を貰いました。

 

本当に長かったです。

座敷の唐紙の蔭に座って、義母が御次の間から(どうぞ、お通りを」

と申しますと、大叔母が唐紙の向うで「まぁ、お前さまどうぞ」とある。

すると、又、義母が「まぁ、どうぞ」という応酬が何度かあって

やっと、義母が上の間に入り、それからが長い挨拶で

「ご無沙汰申上げて・・・・御揃い遊ばして御機嫌よく・・」から、

お互い時候の事、長々と遣り取りしてる間、私はずっと頭を

下げ通しでした。

これが昔の大名の奥方の挨拶なのでしょうね。

 

この里帰りでも着物から帯まですべて新調したし、人力車を

何台も連ねて沢山のお土産を積んでました。

お土産を並べると奥から表にでるくらいあったそうですから

何度も帰れません。

 

  中根 幸

 

出産

慶喜の側室の一人である、お幸の何度目かの出産の時ですが

お幸が、そろそろ催してきたので、お上に御挨拶申し上げて

お部屋に下がりましょう。と思い、風呂を済んだばかりの

お上に、奥女中に上記の事を云わせましたら、お上は

「一寸、待っていよ」と云い、お幸それではお部屋に下がって

お待ちしてます」と云って廊下の敷居を跨いだら

同時に産み下ろしたという事です。

 

お産の軽いのにもビックリしますが、「待っていよ」と云われて

それを「はい」と引き受けたお幸もお幸だと思いました。

 

何しろ子供を20人以上なしてますから慶喜は経験豊富です。

ちなみに、日本記録は70人です。

備前・岡山藩主・池田綱政です。

今の時代に必要な方ですね。