赤穂城大手門

浅野侯の話をします。

浅野家といえば、忠臣蔵です。

家老の大石内蔵助を中心にして吉良邸に討ち入りし

武士の誉れと世の人に称賛されました。


 松の廊下刃傷

以下の話は、慶喜のお孫さんが浅野侯にお聞きした

話しであるという。
実は、浅野侯の実家は、忠臣蔵の時の参加しなかった

赤穂藩浅野家の江戸家老だったのです。

その為に、不忠の臣の代表格に扱われていた。

安井家は、初代浅野長政の実家でもあった。

 

俗説では、江戸家老の安井は行方不明となってる。

試しにグーグルで検索したが異口同音に行方不明になってました。

 

実は、本家の広島藩に仕えたという。
この他にも、廣島藩に仕えた武士もいた。

討ち入った浪士の子供は幕府によって罰せられ

(この辺は、以前取り上げましたが)中には、遠島から逃れる

為に出家した子もいます。

 

安井家は、広島藩に仕えての後は改名し「淺野」と変えた。

その子孫の浅野侯の父が、安井から浅野家の分家の養子に

なり、浅野侯は、分家の当主から本家の当主になり、

安芸守となり本家を継いだのです。

 

浅野家は、慶喜家とは縁戚関係にあります。

従って、慶喜邸にもよく訪れてます。

或る時、別の華族(大名)と慶喜邸でばったり出会い、一緒に

入ろうとしたら、その華族は、今日は御譜代会があるので、

こちらから入りますと云って、断り、浅野侯は、入口まで

別なのかと驚いたそうです。

 

 一番左が浅野長勲侯(チョウークンさんと呼ばれたようです)

隣が家達、その隣が慶喜の弟の昭武(元水戸藩主) 慶喜撮影

大石内蔵助の子の主税は一緒に切腹しましたが、主税の弟に

大三郎がいました。


この子も赦免後正徳三年(1713)父と同じ1500石でした。

12歳でした。

15歳以下は、その年になるまで、親戚等に預けられて

15歳になると、刑が執行されます。

子供を妊娠している女性も、出産まで猶予され、そのご3か月後

刑が執行されます。

 

子供の大三郎に話を戻すと、彼は、3回結婚しています。

ただ3回目の離別辺りでは、放蕩の説があります。

その後、隠居願いを出しています。

家督を子に譲った時には、梅毒で鼻が落ちていたと云います。

そこで出来た歌が

「大石が召し出されしも内蔵のかげ(陰)

    鼻の落ちたのも またくら(股座)のかげ」

その為か家禄を500石に減らされたという。

 

妻のりくも剃髪し出家しています。

彼女もその後広島藩が隠居料として100石を与えてる。

 

姉のるりは、正徳4年に広島藩主の命により千石取りの侍と

結婚、2男4女を産んだ。53才でなくった。

 

浅野内匠頭の弟の長広は旗本で3千石でしたが、刃傷後

閉門になり、その後、広島藩が面倒を見てました。

5代綱吉の死亡後赦免になり、旗本で500石を充てられた。

墓はお馴染みの泉岳寺にある。