江戸などの都会では、寺が舞台となって男女の出会いもあった。

絵で見るように、江戸時代は西本願寺は3方を海に囲まれていました。

潮の香りに包まれて、舟が行き来する風景が周りにありました。

 

初めは、日本橋横山町にありましたが、明暦の大火によって

焼失し、翌年1658年にここに移転した。

 築地鉄砲洲「広重」

メタボンのブログ

この辺は、葦の繁る洲であったので、本堂再建の為に、

佃島の信徒を中心として海の埋め立てを行い、

土地を築き(ここから築地という言葉が生まれた)

1万2千坪の土地を生み出した。

1679年に本堂を再建、「築地御坊」と呼ばれた。

絵で見るように、かなり広大な敷地を持ち、塔頭も57を数えた。

 

ありがたい事よい嫁をめっけ出し

東本願寺と同じように11月22日から28日までを御講といい、

夥しい参詣する人で賑わった。

その日に、参詣を名目に、息子の嫁を探しに、或いは、

反対に、娘を見合いに連れて來る親も少なくなかったという。

この日の、本願寺は結婚媒介所の観を示した。

                        「江戸砂子」から。

浄土真宗は親鸞聖人が遂に性欲から脱しきれず、

お釈迦様でも中々出来なかったといわれるので

無理であったのでしょう。

やむなく悟りを得られないためか、肉食妻帯畜髪勝手と

在家と同じになったのでこうした催しがされたのかもしれない。

 

真宗の場合は、その代わりと言っては何ですが、奥さんが

副住職である寺が多いという。

夫が法事をできない時は妻がするわけです。

寺の住職の奥さんを権妻などと言ったりしたそうですが

権とはかりそめという意味で正式な妻では無いという事。

官位などでも権大納言などといわれてました。

 

結婚するには出会いがあります。

大家や仲人を職業とする人もいたので、

彼等を仲介としての簡単なお見合い、或いは「くっつきあい」

といった、今の恋愛結婚など有りました。

 見合い話を心配で襖の陰で聞く娘

少なくとも武家のように、婚礼当日になって初めて顔を

見るといった事は無かったのです。

皮一枚に過ぎない顔の造作などで人を

判断してはいけない。

花嫁が綿帽子を取って初めて見ることが出来、

そこで安心したり、がっかりしたりしたのです。

ただ、これが不幸であったか幸運であったかは、

諸兄姉等がよく御存じなのかもしれません。



武家の古老が述べてます。

「最初から恋愛尽くしでやらなければ夫婦が

成立しないかというとそうでもない、

人間というのは不思議なもので、

少しくらい嫌だと思うものを組み合わせても、

そこは天地自然の作用で情が出てくる。

夫婦は年を取ってからが主なもので交情の事など

いつしか取り離れ2人とも老境に入ってから、

お互いを世話し親切ずくになってゆく。

親子よりも情愛のあるものである。

 

山種美術館 on X: "鳥居清長《社頭の見合》(山種美術館)。江戸 ...

農家と江戸とかの都市と比べると出会いの場が農家は少ない。

これは人口とか町の体質の違いもあるが、根本的に違うのは

農家の嫁というのは、農事、火事、舅姑の世話など、

全ての項目をこなさなければならない。

都市のように幾らでもいるからと簡単に離縁を考えることが

出来ないからです。

 

出会いについては特殊なものがあった

「娘組」「若者組」があった。

若者は15才になると男子は若者組、娘は娘組に入り、

村の組織の一端を担います

 

又、「寝宿」というのがあった

結婚前の若い男女が寝起きした。

この寝宿の交流は活発で、ここで恋愛をし、結婚に

至る場合も多かった。

色々な集まりで男女は、祭りや行事の準備で、女子は男子の

能力や性格を知ることが出来て結婚の際の見極めが出来た。