横浜の農家


田植月は猫の手も借りたい。

しかし、間もなく生まれるのに、

そうした時でも田仕事に行き

分娩の直前まで仕事をし、陣痛が小刻みに来るようになり

初めて出産の為に家に行くのです

 

これら女中の結婚というのは、同じ町家での結婚の年齢に

比べて遅い。

町屋の娘だと16歳から20歳が普通だが、女中の場合は

26歳から30歳になる。

当時でいえば晩婚である。

その理由としては、年季が有ってそれが明けないと

借金が残る状態なので借金を返し、それからという

ケースが多かったのでしょう。

  軽井沢宿
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軽井沢と云えば、江戸時代、飯盛女で知られていました。

川柳での飯盛女の代名詞として使われていました。

中山道では、沓掛・追分と並んで飯盛女で知られた所です。

「かるい沢 膳のなかばへ すすめに来」
この句は、食事中に女中が今夜どうですかと、勧めにきたのです。

 

一番、飯盛女が多いのは追分宿。

その宿の本陣宿の土屋家に多くの飯盛女の証文が残っています。

 

飯盛になる理由としては貧困の為に飯盛女になるのが大部分である。

飢饉の時には、幼少の子を餓死させるよりは良いと、

何百文で売る親もいた。

大体、行商人らが人買いの役割を持っていて、村々を回り

役目を果たした。

 追分宿
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保証金は年や容貌で決まる。

10年とか15年と年季はあるが、

年限が来ても保証金が無ければ解放されないのである。

追分宿本陣であった土屋家文書の中に、

1通だけ永代売り切りがある。

あとは年季奉公である。

25歳の女房を10年5両で売った者も有る。

それには、もし気に入らなければ本金を返すが、

埒が明かなければどちらに売っても構わない。

 

病死すれば本金の半分を弁済、自殺は本金の1割増、

年季中に身請けする時は本金の5割増しを払う。

是は、初期の寛文5年(1655)のものであり、

時代が下がるにつれて条件は緩和されていった。

病死の時は弁済無し。自殺の時は5割増、更に無償になった。

 

旅籠に務めるには、飯盛女以外にも職はある。

しかし、その場合は保証金は安いのである。

 

追分の宿外れの雑木林の中に遊女の墓が有る。

吉野太夫の様な有名な遊女のもあるが、墓さえ建てて貰えず

土に帰した遊女の数の方が遥かに多かったでしょう。

旅籠の主人の扱い一つであったようです。


明治5年に解放令が出た時、追分宿では207人居た。

98人は尾張、22人が美濃、20人が信州、18人が越後、

14人が越中、12人が東京、伊予や阿波の人もいたという。