江戸の結婚離縁C6
江戸城四谷門さて座敷牢に入れられた主人公は、かなり辛いものであったらしく、祖父の日記では「癪」「痞え」「胆癪」という文字が目立つ。監禁されたことにより起きた発作が度々起こっていたようです。この例として別な方が40年に亘る監禁生活を送ったそうですが40年の監禁を経て69歳で亡くなった。或いは、14歳で監禁され33歳で「胆癪」で死亡、又、5年間の監禁生活中に気が触れて亡くなった方もいる程で先の見えないというのは危険を秘めていたのか分かります。主人公は、これではいかんと思ったのか祖父から勧められ「後三河風土記」或いは毎月の幕府の御沙汰書、「太平記」などを書写し何とか持て余す暇を潰し気分転換を図ります。太平記にしても三河風土記にしても何れも40巻以上のかなりのものですが,懸命に筆写したようですが、今度はこの作業が病状を悪化させたようです癪の発作を起こし火鉢を投げるなどの凶暴さを示した。家族らは慌て狼狽しました。『三河後風土記』(みかわごふどき)は、近世に書かれた徳川氏創業期に関する歴史書。著者不詳。全45巻(42巻、50巻本もある)ここに来て親類らは此の儘監禁を続行して行ってもいのかという疑問が湧き親類会議を開き、これからの事を協議した結果、宥免、つまり座敷牢から解放することを決めたのです。牢に入れてると病状がますます悪くなってしまう事を恐れたからでした。解放の日、父たちは裃着用の上で「向後身持相慎段」という旨の誓約書を書かせて受け取り一同で固めの杯を交わし式は終わった座敷牢も「入口常の如く拵え」通常の形にし、「縁外格子」も撤去されたここに座敷牢の生活は終わった。妻や子も呼び戻され屋敷内に立てられた家と土蔵に転居した。総工費30両であったという。それから2年後には子供の誕生もあり大分戻って来たようです。そろそろ仕事を書記である祐筆の試験も受けた。残念ながらこれには合格しなかった。多分表右筆の事でしょう。ただ試験を受けられるというのはもう状態は良くなったという事でしたそして2年後学問吟味の試験を受験した。この試験の事は何度も説明してますが、幕府の狭き門ですが唯一の開かれた門で下級旗本・御家人の登竜門で、これに合格すると勘定所への道が開けた。合格者は、御勘定と支配勘定とに分かれ採用される。旗本が御勘定、御家人が支配勘定。御勘定が上級職でした。この難しい試験に見事合格したのです。宝暦12年(1762)12月2日御勘定を申し付けられた。相当な受験勉強をしたのでしょうと言いたいが、実は違ったのです。現代の上級試験では間違えても情実というのは無いでしょうが、この当時の上級試験には有ったのです。以前の学問吟味の欄でも紹介してますが、実はコネ・金が物を言ってたのです。今回も親類の一人で勘定奉行に就任した親類を通じて裏工作をしたと祖父の日記ではある。やっぱり地獄の沙汰は金が物いったのです。だって幾ら奉行と言っても渡すものを渡さないと出来るものと出来ないものがあったに違いありません