江戸の結婚離縁4
お見合い結婚は人生の墓場だという諸先輩の含蓄ある言葉もあるが結婚を控えての話です。無事交渉が纏まると双方の家の親類書が交わされ、それが済むといよいよ待望の?挙式です。武士の場合は、主君の許可を得なければならない。幕臣の場合も同じく主君の許可を得て老中に願書が出され、普通は即日許可が出るのだが、何故か出なかったという。何故かというと主君は願書を見たがその後失念してしまい書類が止まったままであったからだという。しかし、お上の許可無しに挙式を強行、許可書は式の6日後に出たという。結納は結婚願書の提出の2日後だった。結納の品は、帯代200疋(2000文ですから2,3万円くらいでしょうか)酒3升入り手樽、掛鯛1荷、鯣1折、昆布2連。この日に持参金の半金10両が渡されたしかも、この日に歯を黒く染められ、鉄漿親は母の兄嫁だった。婚礼の日まで『暇乞い」の近所周りの御挨拶、或いは餞別を貰ったり,家では新品の加賀絹を質流れで買って着物を作り、祖父は漆と渋で婚礼道具入れの長持の棹をピカピカに磨き塗り直してくれた。長持 高松宮妃の嫁入り道具の一つ家紋は葵の紋相手宅に婚礼道具を持ち込んだが、道具といっても継ぎ箪笥と万年葛籠、長持1棹、蚊帳は間に合わず翌年春に叔父が贈ってくれた。本式の蚊帳は高価なもので今の金で2,3万円はした。多分紙の蚊帳ではないもえぎの蚊帳でしょうそして婚礼日を迎え。ここで残りの持参金10両が渡されて結婚の契約完了。婚礼には駕籠で乗り入れたが日雇いの4人乗りの陸尺が駕籠を担ぎ嫁入りした。少し前ですと背中に負ぶわれて行ったようです持参金は、或る病気も大きく関係していました。それは、江戸時代猛威を振るった「疱瘡」です。現代では、脅威にはなってないが、その当時は恐れられていて御庭番の日記でも、子供を疱瘡で亡くす場面がありました。そして、困ったことに、この病気は後遺を残すのです。「あばた」です。持参金は、このあばたにも大きく影響しました。「持参千両あばた千粒」と云われ、逆に疱瘡に掛かってない娘は、持参金を頂いて「支度金取って行くのは袋持」と云われた。この「持参金」と「嫁入り道具」は妻の財産であり、仮に嫁入先の店が潰れて財産を没収される場合でも、妻の衣裳や道具類には無関係であり手が付けられることはありませんでした。江戸時代、闕所という刑罰があり、田畑、家屋敷、家財を根こそぎ収公(没収のうえ、幕府の財産になる)するものである。何とも恐ろしい刑罰なのです。井原西鶴は「日本永代蔵」の中で淀屋の繁栄ぶりを記している。宝永2年(1705年)、五代目の淀屋廣當が22歳の時に幕府の命により闕所処分となった。闕所の公式な理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだった。しかし諸大名に対する莫大な金額の貸し付けが本当の理由であろうとされている。闕所時に没収された財産は、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上った。