谷中・天王寺五重塔(感応寺) 明治期

昭和に入って、心中する際に放火して焼失した
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感応寺事件です。

感応寺(天王寺)と云えば、富籤で有名です。

幕府はこれら富籤の収入が年間3万両と云われた。

以前にも坊主が絡んだ延命寺事件が有りました。


関ヶ原の戦い
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脇坂家といえば、古くは柴田勝家との戦いの

賤ヶ岳の七本槍(古くてスイマセン)で

知られたのですから、当然、秀吉の子飼です。

それがどうして寺社奉行という要職に就いたのか

関ヶ原の戦いからです。

小早川軍の裏切りと同時に他の大名と一緒に

西軍(大谷軍)を攻撃し、生き延びました。

一緒に攻撃した大名などは逆に1万石

減らされた家も有るので、微妙な理由があったのでしょう。

その時の句。

貂の尾を 輪違いに振る 関ヶ原

脇坂家家紋・輪違い

その後、脇坂家は天和2年(1685)

願譜代」という特別な家柄を願い出て、

何故か許可されて、譜代になるのです。

わずか6家しかない珍しいケースです。

そして、奏者番という難しい役を乗り切り、

寺社奉行に抜擢されるのです。

 

感応寺は、11代家斉の愛妾「お美代の方」の

実父が娘の力を借りて復活させて自分が

治めた寺でした。

大名ですと、こうした場合、蛍大名と云いました。

娘のお尻を借りて光ったからです。

 

ここを拠点として大奥に基盤を築き絶大な

信仰と喜捨を受け、感応寺へ至る道は大奥女中の

参詣の駕籠で埋まり、必然的に門前町は発展し、

又、寺社の堂塔は大伽藍を誇った。

 

多くは夭折した子の為に、その法事を名目に

参詣を行い、感応寺も美男の僧を揃え、

これを応対したという。

この辺は、増上寺と同じですね。

寛永寺よりも奥女中は喜んだといいます。

 

幕臣が書いた本によると「奥向きより代参と

称して宮女大勢常に参詣するゆゑ、

住職始め供僧等申合、各自競争して不義を行い、

姦通し、夜には増長して、女中共に申合せ、

奥向きよりして寄進の物也。

代わる代わる長持に入りて恣に姦淫をなし、

後には生人形の女をあらわしたり

交替で長持に入り寺に入り、

好きなようにしていた。

ある時、寺社奉行が是を怪しみ、

長持を改めたところ、物ではなく、生人形=女が

入っていた。

  代参
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やがて家斉が天保12年に没すると、

老中・水野忠邦はすぐさま、阿部正弘に感応寺の

取り潰しを命じ、日啓も捕えられて遠島になり、

牢に入れられたが、すぐ、牢死した。

恐らくは殺された。

喋られると非常に不味いことになるからです。

「存命ならば死罪」です。

毒を盛ったか、或いは囚人の手で殺させる。

幕府の常套手段です

これが感応寺事件でした。