江戸の子供4-2
生麦村奉公してる女性たちは、江戸近辺の地域から出ていたようで、生麦事件で有名な生麦村の記録では、天保8年(1836)村から8人の女性が江戸の武家屋敷に奉公してる村の女性人口は560人なので8人というのは少ない人数ではない。奉公先は御三家の一つの水戸家、大藩の仙台藩の名がある奉公する理由としては屋敷で礼儀作法を習い,良家に嫁ぐことを目的としたものであった田安家に女中奉公した三多摩出身の女性・みちは、再三、家に金の無心の手紙を送ってます。みちの給与はというと、年に金3分くらい、今の金では、7万円くらいですから月収5,6千円これは安いですね。それにお仕着せ(制服)衣食住が付きます。しかし、当時の下女の給与でも1両2分、幕末には3両2分。江戸城大奥の最下位の御半下といわれる御末でさえ合力金といわれる金を2両、他に薪や炭、油代等も貰っているのですから如何に安いものであるかは判ります。しかし、何しろご領主様に仕えるし、やはり武家屋敷の奥奉公をしたというだけで、もう箔が付いて玉の輿に乗れます。女子のみの手習い小屋手習小屋を開く時でも、大名屋敷で奉公したというだけで娘を礼儀作法を学ぶには丁度良いと思われ、生徒が集まります。後の事ですが、みちは、屋敷で裁縫を覚え、それを生業とし実家にも逆に仕送りが出来る様になってます。当時は、裁縫は出来るのが当たり前ですから、身を立てるというとかなりの技術が無いで無理です。従って、相当の物を身に付けたのでしょう。当時は、みちのような三多摩地方の上層の農民の娘が江戸城大奥や御三卿の屋敷に下女中として多く仕えていました。これは、口減らしではなく行儀見習いで行くのです。しかし、奉公先でお付き合いなどで金を要するようになり実家に金の無心の手紙をするみちが家に送った手紙「色々御用多様の御中にこのようの御用申上げ山々恐れ入り、候へ共、私事金子にさし遣え、所々に出かたも多く、まことにまことにこまりいりまいらせ候御事、なにとぞなにとぞ壱分二朱程戴きたくお願い申し上げます。」2,3万円ほどです。所々と有るのは、主人の供での外出をしたりして、小遣いが無いというのである。一分二朱だから一両の八分の三であり、多額の額ではないみちは、時々名産である青梅縞を送って貰っていて青梅縞は帯地にも使われ奥女中にも人気があった。それを送って貰っては、代金はいずれ送ると云いながら送らず小遣いにもしていたようである。いずれにしても奥奉公の給金では何を買うにしても家の援助無くては無理でしょう。もう一つの手紙は、やはりおねだりです。ビロードの帯を、心やすき人から勧められ、見たらあまりに物にしては安く、柄も好みだったので、つい買ってしまった。ところが値段は三両三分二朱であり、独力では払えない家に援助を頼むのです。自分でも、一両一分出すから残額を負担して。というものです。可愛い所があるじゃないですか。「人のようにむへき(無益)に遣すてなぞは致し申さず。みなみなのこり候しなに御座候。私事、御蔭様にて一度も病気にて下り候事も無く、ご奉公大切に致しお勤めおり候事、なにとぞさよう思し召して候て、右の金子くれぐれもお願い申し上げ候。みなみな(皆々)かみのさしもの(髪)も10両、15両なぞ出し候、しなを、宿にて整い貰い候へ共、私事はお前様の苦労様遊し候所存じおり候。いつまでも、この様にては御座なく、人並みに揃い候とまたまた料簡致し、その時は夏冬のお仕着せ物金子にて頂きあなた様へ上まいらせ候つもりに心掛けおり候」父の事をお前様と云うのです。人のように無益に使い捨てではなく一生ものです。私は一度も宿下りしたことも有りません。一生懸命ご奉公していますなにとぞそのように考えて頂き、帯の金はくれぐれもよろしくお願いします。同僚は、家からの金で10両とか15両の髪の差し物を買ってもらってますが、私は父上の苦労を知ってますのでそんな事はしません。何時までもこんな事ではなく、人並みに揃えば夏冬のお仕着せも金で頂いて、それは父様に上げるつもりです。この辺は現代と同じで、友達はブランド品を一杯買ってもらってる。私はそんな事はしないで一生懸命に仕事してるんだからそれくらい買ってよ!こんな感じですね。