手習いコーズの次は素読です。

意味の解釈を加えず、本の文字を声を出して

読み上げること。


論語などを読む。

「子曰く」これを「しのたまわく」と呼んでたが、

戦後は、「しいわく」になってる。

やはり、素読では「しのたまわく」がピッタリと来るのは、

やはり古いのでしょうか?

 

会津・日新館・素読

教科書は「四書五経」

『大学』や『論語』に代表される中国の古典が教科書でした。

旗本の場合は、十七歳になると大学頭の前に

出されて、素読の試験を受けます。

二回までは落第しても大丈夫ですが、三回落ちると

再試験の機会を失います。

そうすると、一生、武士として家を継げなくなります。

 

つまり、武士としての階級は残りますが、

家督相続は許されません。

その結果、やむなく町民や農民の家に養子に行ったり、

雑業につかなければならない、という厳しいものでした。



 

ただ、養子の口は、良い成績を収めた人でないと

良い口はありません。

血筋が良ければ別です。

血筋というのは、非常に重要視された時代ですから

現代も変わりませんか?

名門の血を引いてるというだけで、それで大丈夫です

 

養子の名門?といえば、高須松平家を連想します。

尾張徳川家2代目藩主・光友の3男が藩祖ですが、

もし、宗家の尾張藩主に欠が生じた時は、補完する役目を持ち、

実際に8代目藩主はここから出ている。

 

そして、最も有名なのは幕末の事でした。

当主には子が多かった為に望まれて養子に行ってます。

やはり血筋が好いです。

江戸時代は、血統が重視されています。

まして、神君の系統で譜代筆頭の尾張家ですから、引く手数多でしょう。

今の競馬界と同じですね。

血統が良ければ成績を上げなくとも早めに引退させて種馬になる。

これが稼げるのです。

1発数千万円というから、でも、毎日のように予約があるので励む。

業務があるのも辛いかもしれないが、でも、仕事です。

 

次男は尾張藩第14代藩主徳川慶勝、三男は石見浜田藩主松平武成、

五男は高須藩第11代藩主から尾張藩第15代藩主、

御三卿一橋家当主となった

(名乗りも松平義比→徳川茂徳→徳川茂栄と変遷)。

七男が会津藩主松平容保で、九男が桑名藩主松平定敬と幕末に

活躍した藩主となった。

十男の義勇は高須藩第13代藩主となっている。

 

長男が家を継ぎ、次男は、若しかしたらという意味で

スペアとしているが、3男以下は、必死に養子の口を

探さないと一生飼い殺しの状態で、嫁も貰えず、

もし、使用人が子を生んでも間引きされます。

 

一番良いのは初婚の娘を狙うが、数は少ないので

夫が若死にして後家になった家を狙うのもある。

武士の娘は、再婚が多いです。

子が出来ないと離縁されるケースもあるから。

隆子の日記

以前紹介した井関隆子も、一度結婚し、離縁し、

それから井関家に嫁入しました。

井関家では子を産んでませんが、大事にされて一生を終えました。

従って、人としての魅力もあったのでしょうし、

歌とか源氏物語を好んでましたので、

そうした教養も評価されたのではないでしょうか。

 

何も起こらなかった場合、次男は、「厄介叔父」という形で、

屋敷の陰の方に部屋を与えられ

一生其の儘で終わる事も珍しくありません。

「小糠3合あれば養子に行くなと、言われましたが

実際はそれでも養子に行ったのが良かったのでは

と思います。

 

Toshiakira Kawaji.jpg

幕末の有能官僚の川路聖謨兄弟は、揃って養子で

川路家・井上家に行き、それぞれ勘定奉行を

務めたという珍しいケースもあります。

揃って出来が良かったのでしょう

 

ただ、その為に上がろうとする努力も凄まじく

九州日田の代官所の手代であった父が、

子を世に出そうと家を整理して江戸に出てきた。

手代というのは稼ぎは良かったが、それを捨てて来た。

相場として株の値段は有った

「与力千両、御徒5百両、同心200両

 

そして、御家人の株を買ったが、生憎、

金が足りなかったのか、隠居させるほどの金を

払わなかった為に、禄はそのままに以前と同じく

取られてしまうので、川路家には入りません。

家の片隅で家族が折り重なるように生活してたという。

 

この間に勉学に励み、毎日、朝早く星が出てる時間に

家を出て、要所の挨拶回りをし、顔と名を覚えて

貰うために、星が出てる頃帰宅。

 

これを毎日続け、やっと、希望の勘定所のお手伝いに

採用され、その後累進して、後には幕末の日本の

外交を担当し、ロシアの外交団から高評価を受けた。

井上家を継いだ弟と共々に出世をし幕閣の中枢を占めた。

江戸城開城の日、中風で手が利かないので、

軽く腹を切り、ピストルで自害した。

最後の古武士と称せられた。