門限を破り27年間の幽閉および関係者1500人が処罰。江戸時代に起きた「江島生島事件」【前編】

大奥女中が祈りが通じて目出度く懐妊すると、やっと、

別の部屋があてがわれお付の女中が付きます。

子を産むかどうかであり、上手く成人して

なにしろ乳幼児の死亡率が異常に高い時代です。

 

江戸時代、乳幼児の死亡率が異常に高いのは知られているが

徳川将軍を例に挙げると、何故、将軍の子供の死亡率が

高い原因として逆に医師の過剰な医療、鍼灸医療も上げられるという。

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出産に際しては手厚い医療体制を取り、例えば、11代家斉自身の

誕生の時も10月3日に誕生したが、8月24日から医師が泊り、

9月15日には更に医師が加わったほどである。

 

従って、将軍の子女の誕生に際しては、2月晦日に誕生した子は

誕生前の1月15日に、御側衆から2月朔日以降、

医師が昼夜に関係なく付き、担当医は毎日診察する事、

出産の気配が有る時は医師全員が参上する。

 

しかし、子女の死亡は相次ぎ、寛政11年には、

将軍家斉は、相次いだ子供の死に際し特別な医療ではなく、

普通の医療を求めるようにと改善を求めている。

 

子を産むことが出来れば、

もし何処かの藩に嫁入、或いは養子に入れれば。

もう国母として安泰です。

公卿の場合は、女子の誕生が強く望まれてた。

成人すると大名などへの嫁入り、或いは側妾として望まれ、

多額のお金が入って来るからである



 

ちなみ、将軍側室の場合、あまり、容貌の方は、

問題無いそうで、中には犬の狆のような人もいました、

そういうやっかみに満ちた証言もあった。

結局、将軍にどうしたら近づけるかが問題であり、

そういう人脈が必要なのです。

 

御庭拝見という名目で、奥女中に振袖を着飾らせて

お庭を歩かせ、それを障子の陰などで見る将軍が

見初めるというのが一般的でした。

14代家茂も和宮が来る前に旗本の娘が2人いたという。

 

ただ、誰を選ぶかというのが問題で、年寄の間で

決められるが、勢力が強い方が勝ちます。

 

13代家定の生母・本寿院の乗物

大の慶喜嫌いでしたね。

 

中には、偶然に恵まれてなった女性もいました。

偶々、姉が奥女中をしてた江戸城大奥に遊びに来てて

その日、奥女中の採用試験の面接があり、1人、何故か

欠席で、その埋め合わせに無理やり参加させ

襖の陰から見てた12代家慶が気に入ってしまい、

その日からお泊りとなった超玉の輿に乗った女性も

居ましたが、それは、ホントに例外でした。

 

勿論、町娘ですからコネが無いといけません。

最高に上手く行ったのが、11代家斉の寵を受け、

女子を生み、その娘・溶姫が加賀前田家の

御守殿として嫁入した親であるお美代の方。

 

この場合は、町娘を見つけ、その容貌などが、

家斉の好みとぴったり合うと思い、直ぐ養女にし

武家奉公を教え込み、家斉の目に止まるように

工作し、それが嵌ったのです。

娘は3人とも、徳川家の御家門に

嫁入したわけですから,

文字通り超玉の輿でした。

 

娘の一人は、浅野侯の広島浅野家に嫁入した末姫

大変親切にされましたと浅野侯の感想が有りました。

ただ、その格式たるや大変なもので、浅野家の嫡子で

孫でもある浅野侯でさえ、御住いと呼ばれた屋敷に

呼ばれていって尚、会うまでは面倒だったのです.

老女の権威というのは、浅野侯と同格であり,

中から老女が少し頭を下げるくらいなのです。

 

挨拶をしてから、中から「お入り」と

声が掛かるまで入れません。

ですから、如何に格式が高いものであったか判ります。

 

御住いと呼ばれる屋敷には役所もあったのです。

治外法権です。

 

家達邸洋館玄関

老女といえば、明治期に16代家達の屋敷に天璋院

本寿院、実成院の将軍の正室・生母が同居してる

時が有りました。

その時の話ですが、家達に3姉妹がいたが、後に

なっての述懐で、3人のお付の老女というのは、

とても怖くて話しなど出来なかったと恐れてましたね。

それだけ、威厳というのを持っていたのかもしれない。