上の絵は、お仕置きの真っ最中です

師匠の前に居る2人の子供は、口頭で注意を受け

上り框の子は、正座して線香を前にしてる

線香の火が消えるまでそのままです。

更に、縁側の子は、俵を背負っている。

それぞれ、厳しいお仕置きです。

手習い子 母と下るは不首尾なり

入口には一番、怖い人が迎えに来ました。

どう見ても帰ったら怒られます。

そして、師匠が武士であれば、脇差は勿論、

タンポ槍、或いは、薪ざっぽ、弓の折れ、などは

脇に置いていたので、それで打たれることも有ったという。

本では、それで死んでもやむを得なかったとまで書いてる。

恐ろしい時代です。

書初め

書初は正月2日に、その年の書き初めを祝う行事で、
寺子屋の普及とともに一般化したといわれています。
 左端の衝立の上部中央には、『古今和歌集』の古歌に始まり、
江戸時代には琵琶歌、浄瑠璃、常磐津などにも歌われ、
現在は国歌となっている君が代が書かれています。
 
 絵の右側には新しく寺子屋入りをしたらしい女児と母親がおり、
女児の左側にある西村と書かれた黒い箱は、
菓子屋が得意先に菓子を届けるのに使う通箱(かよいばこ)のように見えます。
 この母子の向うには、盃を持つ女性と、
銚子から酒をつぐ女性がいます。
正月のことなので酒は屠蘇(とそ)でしょうか。
 正月に屠蘇を飲むことは平安時代に中国から伝えられ、
病除けの風習として江戸時代には広く行われていました。

書初め

子供は、親から御祝儀を持たされて、手習いの師匠へ挨拶と書初めです。

普段は反古の紙で書くが、今日は新品の紙です。

今日は若水で墨を摺り菅原道真の画像を掲げ、恵方に向って

目出度い詩歌・文字を書く。

終ると安倍川餅や福引も有り、子供たちは楽しみにしていた。

 

それ終ると女児はカルタや羽根つき、男児は外で凧上げなどして遊びます。

 

大体6歳から12歳頃まで教えて貰い、書は御家流溝口流

を教え、時には算盤も教え商工への道もあり

文政年間、日本橋佐内町に弟子500人に手跡を指南

中与兵衛という先生が居て、厳しくて笑顔も見せず

雷師匠の仇名があった。

しかし、教え方が丁寧であり子を頼む人が多かったという

入門

 

町人の場合はそうでもないが、武士の場合は厳しいものが

ありました。

例えば御三家の一つである水戸徳川家。

塾は満六歳から始めて二十歳近くまで来るのが普通でした。

もっとも十三、四からは、藩校弘道館に入り、

そこで中等以上、高等教育まで行われるのですが、

この方は毎日ではなく、身分により、また長男か次三男かに

よって出席の義務にも違いがあり、五百石以上の上士の嫡子は、

一か月のうち十五日、それ以下は七、八日という風で、

基礎的な教育は塾で仕込まれるのです。

 

教育の場でも長男とそれ以下とははっきり差別されるのです。

長男以下は、特に3男以下は何としても養子の口を見つけねばなりません。

良い血筋の家ならともかく、普通の家の者は何か特技を

持っていなければアピールできません。

幕末ですと剣術はありましたが、太平の世であれば、算勘の道が

頼りになるのは言うまでもありません。

ですから三男以下は勉強に励んで藩の試験に合格することが

重大ごとであり佐賀藩などは「妖怪」と言われた鍋島閑叟の時代には、

急速に洋式化を進める藩論からか、試験に合格しないと

禄を没収するといった前代未聞の事で道を歩くと屋敷の中から

勉強に励む声がどの家からも聞こえたといいます。

佐賀藩が作った蒸気機関車

「佐賀藩 機関車」の画像検索結果

もし、それでも養子の口が無い人は、一生屋敷の片隅に居候し

甥などの世話を受ける厄介叔父として面倒を見られ、

結婚も出来ず、下女との間で出来た子なども間引きされた。

 

行儀作法は厳しく厳格に躾けられたという。

「明日というが 行儀の手習い子」

明日からしっかりとやりますというのが、

手習い子の言い訳。

1月31日】寺子屋の絵、渡辺崋山、蛮社の獄。 | 成績、上がっ ...

当然ながら年齢もバラバラであり、それぞれが勉強をし、

師匠に見て貰いながら進めた。

何しろ机の方向が先生の方を見てません。バラバラです。

先生の方を見て勉強するのではなく、先生が生徒を見て

講義するのです。

先生が子供の所に来て書くのを見、話すのを聞きました。

当然、子供同士の喧嘩も有り師匠や年長者がそれを治めなどし、

そういうことから人間関係なども学んでいった。

騒いだ場合、線香を持たせ消えるまで立たせたりしました。

親もそれを必要な事と許容した。