当時、世襲に関係なく昇進の期待が持てるところというと勘定所。

ここなら能力があれば希望が持てるところであり、

又、段々と異国船の襲来等が起こり、

世が少し不安定になり、幕府もこれに対応するために、

人材を集めていた。

 

人材を集める上では、幕府は諸藩より積極的であり、

有能とみるとどの藩出身であろうと採用した。

後に長州の軍師として幕府の長州征伐を打ち破った

大村益次郎なども代表的です。

母藩の長州藩などは評価するのは遅く、幕府や他藩に

雇われた大村を低い評価で雇い、何故か大村も

それを受け入れて雇用されてる。

やはり故郷という事が大きな物であったのでしょう。

 

家督を継ぐ、或いはその予備軍である次男は別にして、

3男以下は、一生懸命勉強して好成績を残し養子の口を探す。

つまり学問吟味に合格することが自分の運命を変えることとなる。

 

下記のは昌平坂の「学問吟味」の合格証書である。

左端に蜀山人として知られる「太田直次郎」の名がある。

しかし、太田は御家人である為に、名前の列の高さが一段低い。

些細な事だが、このようにして旗本と御家人との

違いを明記するのである。

メタボンのブログ

武士の往来でのあいさつ


もし、就活し採用されたら世話になった方に御礼する。

当たり前の事ですが、当時は、もし採用にならなかった

時でも御礼をしなければならなかったのです。

毎年、決まるまでそうするのですから

物入りであったでしょう。


幕末になると金が無い武士に憧れた富裕な町人は、

株を買い取り、身分制度の頂点に立つ武士になろうとしたのです。

勝海舟家もそうした家の一つで、祖父が金貸しをして金を作り

御家人になり旗本になったが、何故か、幕末に活躍した人が多い。

勝海舟の父の小吉は、若い頃は、無頼を尽くしてたが、

或る時、何故か、これではいけないと思ったのか

急に求職活動をし始め、要所に挨拶をし、金を

使ってもしたが、生憎、希望は叶えられなかった。

金を稼ぐ法として、ブローカーのようなことをして

金を稼いでいたようで、その文書も残ってる。