縁切寺として知られた両寺は、宝暦2年(1762)の

寺院文書にも、縁切は古来から寺法としてあるとされてる。

この特権は、家康の孫娘の千姫が助命を嘆願して

救われた秀頼の娘の天秀尼の入寺に当って、

家康が特権を与え,後に、満徳寺は、千姫が入寺し、

本多家へ嫁入した事により確定されてるという。

 

占に 南と出れば 松が岡

松ヶ丘御所と尊称されました

行き先は東慶寺です。

嫁は必死に逃げます。

うろたえて 駆け込みもある 建長寺

間違えて隣の寺に行ってしまうのです。

門前まで逃げてきて、あとは草鞋を投げ込めば、

それで駆け込み成功。

勿論なんでも身につけてる物であれば大丈夫。

 

満徳寺の駆け込み門

寺の規則では、離縁の場合、2つの方法があった

一つは、寺法離縁といい、在寺3年で夫から強制的に

離縁状を出させる。

 

「誰々妻の駆込みの件で、松岡御所の役人が

何日に行くので、夫ともども家にいるように

もう一つは、内済離縁でした。

これは、寺の仲介や調停により、示談でするもので

妻は入寺せずに離縁が成立した。

駆け込み成功、中に役所が有ります。

御調べを受け、寺内にある役人の詰所から

御用便で関係者へ呼出状が送られる。

 

御用便とは、幕府の物ですから、民間の飛脚とは

かなり違い正確であったようで、代官なども

私的なものも公的な文書と一緒に送ったようです。

地域によっては、かなり遅れてしまう。

これはまだ十分整備されてない地域が

多かったようです。



呼出状は強制力を持つものであるから、出頭します。

そして、門前にあった3軒の御用宿

(柏屋・仙台屋・松本屋)に

其々別にして宿泊させられる。

 

御用宿の亭主が、ここで和解調停を試みるのです。

現代の家裁の調停人の役割です。

女実親呼出状

調停を受けて、不成功ならば、

あとは3年我慢して尼生活をする。

 

この場合、関係者・夫と妻の関係者はは同じ宿には泊まらない。

必ず、他の宿に泊まるのです。

因みに宿賃は、230文、妥当な価格でしょう。

しかし、裁判が長くなると金の用意が無い人は大変です。

他には御所に納めるお金として

御取り上げ賃が千文、お役人へ千文、御門番へ100文、

合計2100文掛かる。

 

他に離縁が決まった時の東慶寺内での生活する寺が割り当てられ

それは勿論金次第です。

金30両は上臈格で仏様に花供物の世話をする

金15両は御茶間格、室内の掃除、尼さんの身の回りの世話

そして最下層のお半下、これは15両以下の者で、炊事洗濯掃除

何でもやります。

地獄の沙汰も何とかで、逃げて来ても此処でも試されるのです。

 

そして、厳しい精進生活に耐えかねて、脱走を図った場合は、

厳しい処置が待っている。

 

寺法により、素裸にされ、丸坊主で門外へ追い出される。

仮に脱走が成功しても、人別から除外されるので無宿人

となっていくのです。

「出雲にて結び、鎌倉にてほどき」