遊郭

浮世絵・版画】豊原国周『 新吉原江戸町一丁目 大黒屋内今紫 ...

花形の花魁です。

何故そう呼ばれたかというと、一説では狐は尻尾で人を騙すが

遊女は尻尾(尾)が無くとも人を騙すことから、尾は要らん

そこで花魁と呼んだという。

 

ついつい嫌いではないので、というより大好きです。

深入りしてしまいましたが、今回の主人公は遊女に深入りし

31歳から33歳の間1年8か月を座敷牢で過ごしてしまったのです。

では御家人のその波乱の物語を。

 

御家人の家に次男で生まれ、やがて養子に入り養父の死去に伴い

跡目を21歳で継いだ。

運が良い方でしょうね。中々養子の口が無いですから

学問が良くできるとかの物が無いと売りみが弱い、

武芸は幕末の頃だけどやっぱり算勘の道が達者でないと

養子の口は少ない

 

2年後の延享2年(1745)将軍の警護をする役の小十人の役に就く

「ことばんく」では、将軍外出の際に扈従 し前駆をつとめた

足軽の組で,1組 20人,10組から成り,小十人頭の指揮下に,

本番,御供番,詰番,御供加番の4手に分れた。

若年寄支配,詰所は檜の間であった。

 

寛延元年(1748)将軍の間で弓の射術を披露する大的上覧では

皆中という見事な成績で褒美をもらう。

 

御庭番の川村は、正月の弓始めの選手に選ばれたが

あいにくの雨で中止、でも、褒美として健闘を慰労され

銀1枚と白牛酪を頂戴してます。

更に延享4年には、嫁取りもしてます。

19歳の娘を25両の持参金付きでした。

そして順調に?長男も誕生し、養父母は既に亡くなっていたので

誰にも気兼ねすることも無く幸せな生活であると思われていた。

 

それが友達が悪かったのか結婚3年目の頃から生活が乱れだした。

以前将軍上覧の矢の大的上覧ではご褒美を貰ったほどの矢の腕前も

今回は2本も外したというのも乱れた生活に関係していたのかもしれない。

 

しかも、あろうことか深川の遊女に心を奪われてしまった。

岡場所に5日も居続けをしていた。

吉原においては、昼に来る客が上客とされる。

「上は昼来て夜帰る、中は夜来て朝帰る、下下の下の下が居続けする」

 朝帰り
 

心配した兄が3両持って迎えに行き、無理やり連れて帰った。

何とか事なきを得ましたが、家で説教されても全く反省の態度は

見せなかった。

7月になっても将軍が紅葉山御成りのお供をする筈が、

前日になって急に辞退したが、

実はこの時も、岡場所に居たからだという

 

これを見て兄は祖父の所に行き、

弟の乱れた行状をどうすべきか相談した。

1案として女を身請けするというのもあったが、

先立つものが無く、

札差からも借金を断られたので駄目になった。

ここまで来るともう限界です。

 

吉原

東海道五十三次之内 大津 走井茶店 | 知足美術館

吉原と言っても東海道の吉原ではない。

どうも最近そちらを連想するのが多い。

やっぱり広重の絵というのは見やすいからなのでしょうか?

 

こちら遊郭の吉原に居続け或いは仕事をさぼるなどのことしてる弟

しかし、その後弟がとんでもないことを計画してるのが発覚した。

それは女を盗み出す事だった。

いわゆる足抜けです。

金を払って奉公させてる遊女に対する罰則は厳しいものでした。

奉公というのは幕府の建前ですけど。

「御定書」には、「商売をしている夫が妻が同意してないのに

売女させた時夫は死罪。

但し、飢渇の夫婦者が申し合わせて売女した時は、

他に盗みなどの悪事をしていない時は究明に及ばず」

 

つまり女房を遊女奉公に出す事は禁止なのです。

しかし、実際は両方示し合せての事が多く、その場合、

女房の実家からの通報で発覚することが多かった。

この場合、夫は一旦牢に入れられるがすぐ御赦免になる。

但し、それは、吉原で遊女奉公をした場合だけで、

岡場所の場合は全く異なった。

但し、例外もあります。

それは江戸城の数寄屋坊主が妹を吉原に遊女奉公に出した時は

これは死罪となりました。

妹となると違うのです。

 

しかし、こういう条項もある。

「父が娘を養女に出し友情奉公に出されたと、

実家から訴えが有っても取上げない」

 

父が娘を遊女奉公に出すのはOKなのです。

この事は、遊女上がりに対しての世間の評価と関係している。

当時は、遊女になるのは家庭の事情でやむなくなったことであり、

当人の過ちではなく、従って、遊女を落籍せて、

或いは年季を終えた遊女を女房にすることは普通であったのです。

 

江戸時代の子供の種類です

養子や婿養子が多いのが江戸時代の特徴です。

子ー本当の子

実子ー養子ですが、生家とは縁を切り生家の家系図からも

     抹消されてる。

     幕府への届け出が手続き煩雑の為に実子としてる

養子ー他家から迎えたもので幕府への届け出が必要。

    武家の場合、子か養子により家禄の扱いが大きく変わった。

    屋敷も下級の屋敷に変更されたり、場合によっては

    取り潰しもあった。

婿養子ー娘の夫として迎え娘の親とも養子縁組をする

順養子ー長男が死亡し次男を相続人とした時、

      その次の代には元の嫡子(長男)系の子を

      次男の子として相続させ、血筋を本流に戻すことがよくあった

密子ー秘密の子。

猶子ー密子と同じで家系図に記載されてないのが普通。

     当時は僧侶が公家の家に謝礼金を払って、公家の猶子に

     なることがが多く、非公家の子が公卿になるための手段だった。

 

武家は家を受け継ぐことが出来るのは男子だけであったために、

女子しか子がいない家では婿養子を取る。

又、子がいない家では男女1組の養子を取る。

当然、血の繋がりの無い家になるが、家は継続できる。

 

大名家の場合、寛保元年(1741)から寛政6年(1794)

迄の平均で31,3%、藩士レベルでは、宝永5年(1708)

の岡山藩池田家で30%、寛政から天保期の金沢藩前田家では

半数が養子縁組だった。

 

何故、これほど養子が多かったのかと言うと、江戸初期には余り無い。

それが人口が増えるにつれて、子が絶えて次第に養子が多くなったという。

何故、子が絶えたかというと、戦国から江戸初期にかけては

戦国の遺風で戦で若死にも多いが、一方では健康な夫婦も多く、

子を為して行ったが、次第に体力を失い子が継続できなかったからという。

理由として、

平和で安定した時代で体の弱化が始まる

家系大事で近親婚が多くなった

医療の停滞が挙げられる