長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」③ (江戸に関する本 ...

中堅旗本の一人として、鬼の平蔵こと長谷川平蔵がいる。

長谷川家は400石の旗本で末弟の宣雄は養子の口が無いので

やむなく長兄の世話になっていて、いわゆる厄介叔父です。

30歳近くになっても養子の口が無いまま、下女に手を付けて

生れたのが後の鬼の平蔵です。

 

後に平蔵の父の宣雄は養子として平蔵の義理の母の波津と

結婚、父母は本所の屋敷に住でるが、平蔵は実母が早くして

亡くなってるので母の実家に面倒を見て貰ってた。

これは父と結婚した波津は気性が激しく、平蔵を妾腹の子として

本所に移ることをかたくなに拒んだからだった。

 

従って引き取った後も波津のいじめはあり食事も奉公人と

同じであった。

平蔵はすっかりぐれてしまい、仲間を集め、似たような境遇の

者たちで本所界隈で遊び、無頼の者とも遊び頭分になってた。

 

父の宣雄は官僚として優秀であったようで京の西町奉行に

なるが死去した。

跡を継いだ平蔵、安永2年(1773)に小普請に入り、

その後、西丸進物番、西丸御徒頭、御弓手組弓頭になり

火盗改めの加役となり、後に本役になった

 

火盗改役
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火盗でしたから大変であったかもしれない。

奉行所のように役宅も牢屋も無く、自宅を役所にし

牢屋も自費で作らねばならないので、物入りの役として

敬遠された役職です。

 

奉行所と違って、かなり荒っぽく、何処へでも踏み込むし、

身分を問わず、旗本から僧侶まで片っ端から捕まえて連行し、

拷問もいとわず加え、それから該当部署に引き渡すが、

何しろ手荒いので、火盗の屋敷へ連行されるのを怖れ、

そして、すぐ斬るので犯罪者から恐れられた。


鬼平は、この時代の前ですが、鬼平の後任の旗本が

仕事の引き継ぎをしたところ全く引継ぎの書類など

無かったそうです。

要するに、怪しいのは片っ端から処分していたのでしょう。

ここで結果を出しますと、昇進の道が開きますので、

そうなったのでしょう。

 

ですから、この後任の旗本(森山)は是ではいかんというので、

全てを書類に残し後任に引き継いだそうです。

結局、維新の時に引き継がれたのは、「女の攻め方心得」というのが

1冊であったようです。あとは焼却されていた。

後任の旗本の鬼平に関しての評と云うと「山師である」ということでした。

山師という謂れは、金のかかる役目なので金を作るために

相場に手を出して資金を調達してたからです。

 

結局、こういう事があって鬼平は、希望である町奉行に

なれなかったのでしょうね。

かなり本人の強い希望であったようです。

ただ、子供が親以上の出世をしたので報われました。

 

ただ、鬼平も功績があります。

石川島に寄場を作り、罪人に仕事を教えて、出所後に備えたのです。

懲罰刑から教育刑への画期的な転換でした。

  石川島平面図
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