晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


テーマ:

嶋田珠巳著
『英語という選択-アイルランドの今』岩波書店を
紹介する《言語学のフィールドから学ぶ》の前回、
「「改宗」という心意事象について
脱植民地化の視点から捉え直せば・・・」と
書き記しました。
  ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12183586983.html
言語学のフィールドから学ぶ(4) 
2016-07-24 05:58:35


そこに取り上げましたのは、
17世紀クロムウェル時代の
 イングランド人の入植と植民地支配のなかで
良い生活をするために
カトリックからプロテスタントへの改宗でした。

改宗を拒否する人々の存在を
該書《第二章 ことばを引き継がないという選択》では
次のように記述しています。

●現在のアイルランドにおいては、
  アイルランド語を日常的に話す人口2%のなかに、
 母語がアイルランド語で
 第二言語が英語(アイルランド英語)であるという話者が存在する。
 このような話者のいるいる地域は、
 歴史的には、
 イングランド人の入植を免れた不毛な土地である。


「不毛な土地」は為政者の版図には
「辺境の地」として描かれる場所なのでしょう。
このような場所では、
どのような教育が行われていたのでしょう。
以下、引用を続けます。

●植民地支配の下、
 英語を介した教育を推しすすめるなかにあっても、
 カトリックの子女のための教育を
 教師が語りかける形でおこなった
 青空学校(hedge school)では
 アイルランド語で教育がひそかに行われるなど、
 植民地政策のもと、
 一部の地域ではアイルランド語を話す
 コミュニティが保持されていたことが報告されている。


「不毛な土地」では
カトリックの子女のための教育が
行われていたのです。
「不毛な土地」は
母語といった旧来の文化を
育む温床となっているのです。

次回、「改宗」について論じるに当たって
アイルランドの信仰史における
「カトリック」の位置づけを
確認することから始めます。
カトリック以前の層が見えてきそうです。


究会代表 田野 登

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

今回もテキストに
「年中行事覚書」(「青空文庫版」)を用います。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53812_50600.html
閲覧日:2016/07/30


一国民俗学の方法についての
柳田の見識の一端を紹介します。
「歳時習俗語彙序」に次の記事があります。

●村の年中行事の言葉を集めて見ると、
 盆と正月前後とに用いらるるものばかりが、
 割合を越えて多いことがよくわかる。
 もとよりこの二つの節日の大切であったのは争えないが、
 一つには外へ出て故郷を懐い、
 もしくは年取って少年の日を回顧する人たちに、
 特に印象の濃く鮮かなるものが、
 ここに現われていたということもあるかと思う。


年中行事の語彙が盆と正月に
集中するとあります。
このことは現代生活でも実感できます。

『歳時習俗語彙』昭和30年初出は100項目挙げています。
正月は「一 節折目」から
「三八 年取直し」までの38項目、
盆は「五八 夏越の節供」から
「七五 八朔」までの18項目挙げられています。
正月と盆に56項目、56%集中しています。


故郷を遠く離れた柳田の印象に残った
景物はいったい何だったのでしょう。
続きを載せます。

●その印象とは何かと考えて見ると、
 具体的には火の光、
 松のあかしが燈蓋となり、
 ランプとなりまたは蝋燭となり、
 数多い提灯の火となったことである。


柳田の書き連ねる印象に
火の光の歴史を読み取ることができます。
庶民の暮らしの歴史を追究するのが
民俗学の領域です。
柳田でなくとも
盆や正月の行事に火の力を感じることができます。
もっとも今日ではランプもLED照明に移行しつつあり、
新たに幻想的な情緒を醸しています。


以下、柳田は紙の美しさ、
餅のうまさ、及びその形と色艶のよいことを
挙げています。
このあたり柳田の感性は
経験の乏しいボクの想像を超えています。


この序文では
昭和30年当時の生活の変遷により
忘れられ行く文化の残留を
合わせて一括して
文化の展開を談じるのが柳田であります。
その際の方法を述べます
次のような記述があります。


●少なくともこの区域においては、
 独断は何らの威力もなく、
 ただ事実に基づいて帰納し得る者だけが、
 正しい知識に到達するということを
 経験させてくれるのである。


「独断」を拒み
事実に基づいて帰納することの
大事を唱えます。
「独断」とはどなたの
民俗学を指すのでしょう?
折口信夫の直感なのでしょうか?

続けて記します。

●多くの珍しい見聞は

  この書の中に集められているが、
 単なる好奇心に投ずるということは
 我々の目的ではない。


事実の記録を拾い集め
将来に向けて
疑問の解明の手がかりを
記したのが『歳時習俗語彙』なのでしょう。

この方面の調査研究を

愚直に続けている者にとっては、
激励とも戒めとも受け止められる言葉です。


究会代表 田野 登

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

《第1章 身体を装う》は、
《1 身体を飾る(中野紀和)》と
《2 衣の記憶(鈴木明子)》から成ります。


《1 身体を飾る(中野紀和)》は

《消せる装飾/消せない装飾》といった対立項目を立てます。
冒頭の文を引用します。
●身体は社会を覆う価値観や人々の意識を反映しやすい。
 自在にコントロールできない存在、それが私たちの身体である。
 身体に施す装飾には直接的なものと間接的なものがある。
 前者の場合は、
 墨つけや彩色といった一時的な加工、つまり消せるものと、
 入墨のような消せない恒久的な加工に区別される。
 後者の間接的な装飾とは、
 服装に代表されるような、
 身につけて状況に応じて変えることが可能なものが主となる。

《消せる装飾》は「一時的な加工」ですので化粧や髪形が挙げられます。

《消せない装飾》となれば、相当、覚悟が要る加工です。
東京の木場の職人の入墨を挙げています。
入墨を入れた理由を挙げています。
●痛みに耐える、がまん強さを競う気持ちや、
 仲間の大半が入れていると入れていない者は
 仲間はずれのような感覚になる、
 というのが入れる理由であったという。
 このような、痛みに対するがまん強さとそれを誇示し、
 自己表現へと転換していくのは
 任侠の世界で生きる人々にも通じるものである。


現代では、個人の好みで彫り込むことも増えていると記されていますが、
こういった《消せない装飾》には、
ある種の社会的集団への通過儀礼としての
意味合いがあったとボクは考えます。
もちろん、公権力が一個人に対して
身体検査をするなど言語道断です。


筆者の筆致が特に生き生きとするのは
祭礼に取材しての《着脱可能な装飾》です。
彼女は博多山笠研究の第一人者です。
●衣装はハレとケの区別も明確にする。(中略)
 祭りの衣装もその担い手の序列を可視化する。
 衣装を身につけること自体が地域のウチとソトを示すだけでなく、
 半纏の模様や手ぬぐいの色で
 経験や貢献度を表す場合もある。


祭礼を記号論で読む試みがあります。
着衣、襷の色など
ダンジリの宮入などでも
見た目でわかります。


《2 衣の記憶(鈴木明子)》は
まず《日本人と衣服/衣料の変遷》といった研究史を紹介します。
続く《衣服の機能と表象》では、
本ブログの折口信夫の「ほっかぶりする女人」で挙げました
手拭いや笠を取り上げています。
●これまでは、仕事着や晴れ着といった生活の中で
 実際に使用されてきたモノ(民具)を通しての
 衣服の研究が多くなされてきた。(中略)
 現在ではハレの日という意識自体が減少し、
 晴れ着を着る機会自体が減っている。
 ほかにも日常・非日常を含めて用いられた
 手拭いや笠などの被り物、履き物などの研究も行われてきた。
 普段着・晴れ着、いずれにせよ

 着物とその文化が日常生活から消えたため、
 従来通りの研究には限界が来ており、
 モノありきの研究において現代的な視点への転換が必要とされている。


モノで論じることに困難が生じる今日、
何によって《身体を装う》を論じるのでしょう。
もちろん身体論によってです。
近世の雑芸の研究者である彼女もまた、
上半身裸を取り上げています。
●西洋的な文明化政策のもと、

 1872(明治5)年の東京府違註違条例など、
 裸体を禁止する条例が次々と施行され、
 裸体に対する価値観が変化していくことになった。
 しかし「裸と素っ裸」「肌と素肌」「一肌脱ぐ」などという
 言葉を思い出してみても、
 何も身につけない状態にも差違があるように感じられる。


近代における西洋的価値観が敷衍する以前を
彼女は挙げています。
●日本人にとって裸とはどのような状態なのであろうか。
 浮世絵には上半身裸の女性がいくつも描かれている。
 また時代劇でよく見られるように、
 たしかに着物の上半身はとても脱ぎやすい形をしている。


民俗学は現在学です。
彼女の記憶の届く世界を取り上げます。
●時代が下った高度経済成長期の東京の下町では、
 夏になると上半身裸で白いステテコを履いたおじさんが
 外の縁側に座っている姿がそこかしこに見られ、
 地方の海岸部では、素潜りで海に入り

 アワビやウニなどを採る海女たちが、
 腰布一枚をつけるのみで上半身はあらわにして
 海に潜っている姿も見ることができた。


おじさんは、ともかく女性もまた
上半身に無頓着だったのでしょうか?
引用を続けます。
●また農家では、夏の昼寝の時には、
 男女共に

 上半身裸で寝たという話を聞くことができる。
 また各地で行われる裸祭りなど、
 神仏の前では

 ほとんど衣裳をまとわぬ姿になることもある。
 明治以降変化したとはいっても、少し前までは、
 上半身何も着ない状態は男女とも羞恥の対象ではなく、
 裸体の認識は薄かったのではないだろうか。


羞恥の対象は当該の歴史社会に位置づけて論じられる
それは思想史の問題でもあります。
近代社会における「知」の発見と呼応する
問題であって、
おぼつかなくも、揺らいで見える「伝統」こそ
ボクの研究の対象に取り込みたい分野なのです。


究会代表 田野 登

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

このところボクは「民俗」には
興味や関心を示しません。
図書館に出かけても
「民俗」のコーナーに寄らずに
隣の「文化人類学」のコーナーに向かいます。


そうはいうものの
「民俗」は気にはなるものです。
今回、取り上げますのは
太田好信2008年『亡霊としての歴史』人文書院です。

タイトルからして民俗っぽい感じがして
冒頭、悪態をついたボクですが、
ついつい読みふけりました。


構成は以下のとおりです。
序章 亡霊と痕跡、そして驚き
 -「憑在論」から見える世界
第一章 終焉を拒む先住民たちの歴史
 -「返還」を媒介としての人類学的実践
第二章 通過中の民族誌
 -社会過程として「民族誌を書くこと」
第三章 歴史のなかのミメシス
 -ディラン/グアテマラ/9.11以降の世界
第四章 グアテマラ・マヤ系先住民と言語権
 -征服が痕跡として残る社会における「権利」をどう捉えるか
第五章 文化の所有と流用
 -亡霊と痕跡が支配する時間からの試論
第六章 録音技術と民族誌記述
 -近代のエートスとしての保存文化
第七章 ネオリベラリズムが呼び起こす「人種の亡霊」
     -グアテマラの未来に残るテロルの痕跡
第八章 ルース・ベネディクトと文化人類学のアイデンティティ
     -『菊と刀』から『文化のパターン』へと遡及する読解の試み


なるほどタイトルにある「亡霊」がキーワードです。
「亡霊と痕跡」とあります。
亡くなった人の霊が何を生ける人たちに残すのでしょう。

死霊が語るとなれば
日本民俗に蓄積のある世界ですね。
本ブログのタイトルは「語られる亡霊」としました。

この書を読んでみておもしろかったのは
けっして亡霊が
くどくどと人の口を借りて
語り出すといった
おなじみの世界ではありません。
しかし、間違いなく
生ける人たちによって亡霊は語られています。


生ける人たちは都合良く亡魂を
推し量って解釈します。
その心意によって亡魂が
生ける人たちに意味をもたらせます。
死せるモノが
生ける人たちに対して行動を駆り立てもするようです。


死者は沈黙するのではなく
生ける者に対して
未解決を主張し続ける存在のように
ボクは認識します。


たとえば
《第五章 文化の所有と流用
 -亡霊と痕跡が支配する時間からの試論》に
次の記述があります。
●わたしにとって、
 20世紀から現在へと連続する時間は、
 過去が回帰してきた日々であった。
 グローバル化や技術革新という
 進歩の物語によって時代を語ることに違和を感じ、
 日本社会全体がいまだに終焉しない過去
 -たとえば、アイヌ新法成立後も未解決の「アイヌ問題」、
 従軍慰安婦問題や
 旧植民地からの労働者強制連行問題に代表される
 「戦争責任」をめぐる議論が高まったことなど-
 に包まれた感じさえもったものだ。
 「亡霊」のように、
 これまで存在していたのに
 可視化することのなかった過去が
 突然と現在に噴出してきた(*
太田 2003b)。

   *太田好信2003年『人類学と脱植民地化』岩波書店


「日本社会全体がいまだに終焉しない過去」として
挙げられている3点はまさに
「これまで存在していたのに
 可視化することのなかった過去」であって
「突然と現在に噴出してきた」と記述されています。


生存者やその子孫が死に絶えれば
無きが如く振る舞える
といったものではなさそうです。
因縁めいた井戸には蓋さえしておけば
「亡霊」なんぞ立ち現れないというような
悠長なことでは済まなさそうです。


著者は「著者略歴」に次のように記しています。
●1954年札幌市生。(中略)
 主な調査地は沖縄とグアテマラ共和国。」


はたして、テキストにおいて
「語られる亡霊」や如何?
やっぱり、
とろっとした民俗的興味で紹介しそうです。


究会代表 田野 登

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

本ブログ「オーラルヒストリー入門」において
考察の対象とする書物の
書誌情報は以下のとおりです。
『オーラルヒストリーの理論と実践』:
    ヴァレリー・R・ヤウ著
    訳者:吉田かよ子他
   2011年9月11日、
   インターブックス株式会社発行


前回、該書に云う「家族の神話」を
取り上げると予告しました。
該書のオーラルヒストリーの実践におきまして
「家族」は重要な対象であります。

それは全部で11章からなる中で
「オーラルヒストリープロジェクトの諸相」に
3章が当てられています。
それは、コミュニティ研究、伝記(バイオグラフィー)に加え
家族史研究があります。

オーラルヒストリー研究によって
家族間の伝承が解明される可能性が期待されます。

該書に次の記述があります。
●スミソニアン博物館の職員である
 スティーブ・ザイトリン、エイミー・コトキン、
 ホリー・カッティング・ベーカーは、
 家族のフォークロアを収集し、
 A Cerebration of American Family Folkloreで
 その分類を示した。
 この3人は、家族の言い伝えを
 「日常生活の詩」と呼び、とりわけ関心を抱いた。
 .このような言い伝えからは、
 家族の価値観や各個人に対する感情をうかがい知ることができる。


家族間の言い伝えから
家族の価値観や各個人に対する感情を
究明するとは興味深いことです。
そもそも、従来からの研究分野におきまして
家族間に共有する価値観といった問題に
焦点を当てることがあったでしょうか?


家族の価値観を教示する
「家族神話」が述べられます。
●ストーリーに加え、
 その家族の際立った特徴をさらに強調し、
 家族の価値観を教示する、
 または世間体を保つといった目的において、
 家族神話も有用である。


以下、「家族神話」の具体例が挙げられます。
●「当時は裕福だった」、
 「お祖父さんは町で一番頭が切れるとされてましたね。
 なにしろ、洗濯機を発明したのだから」、
 「わが家のもてなしは常々有名でした」
 というようなものである。
 私の家族にも、
 「あなたのお祖母さんは、
訪ねてきた人を空腹で帰らせたことは一度もなかった」
という話がある。
私はこの神話を根拠に、
自分も一族の女性である以上、
料理に多くの時間を割かなければならないと
信じ込み、実際にそうしてきた。


なんや、そんなのを「神話」と云っているのかと
見くびってはなるまい。
家族間に共有すべき秩序が
これらの語りからは
構造として読み取られるというのでしょう。

洗濯機を発明したと語られる祖父
訪ねてきた人を空腹で帰らせたことは
一度もなかったと語られる祖母
彼らを集団の創始者として崇めることにより
その血筋を受けた自分を確かめます。
自分のアイデンティティを獲得するのです。


家族同士でお喋りをしていて
配偶者の方の、両親・祖父母の
いつもの自慢話を聞かされることなど
想像してみてください。

それが祖父母の代ならまだしも
話に乗せられませんが、
祖祖父となればいかがでしょう。

昔は皆、短命でしたから
会ったこともなく
仏壇の過去帳にその存在を知るだけでした。
だから語られる余地がありました。

どこの家族にも
英雄はいないまでも
大変な「酒豪」や、
「極道者」が語られたりもします。

悲惨な死を遂げた方が語られている場合もあります。

ボクの家系では子供の頃、
「ブドウは食べるな」と聞かされていました。
それはボクから数えて3代前、
ブドウを食べて亡くなった方がいるとのこと。
明治の頃、大阪ではコレラが流行った時のことです。
昭和30年代までも語り継がれていたのです。


今思えば、それは環境の劣悪な都市にあって
貧しい暮らしを強いられていた者の
語りの断片のような気がします。

家族間におけるオーラルヒストリーの世界は
一見、荒唐無稽のようにも見えますが、
丹念に収集すれば
興味深い研究分野が開かれることでしょう。


究会代表 田野 登

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。