晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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中島大水道の大恩人・一柳太郎兵衛の末裔
 一柳正義氏を最初に訪ねましたのは、
 2016年7月9日(土)のことです。

 『大阪春秋』の原稿がうまくまとめられず、
 今日、7月24日で3回目の訪問です。
こぼれ話を先に公開しております。

中島大水道上流を溯る小さなツァーも
新太郎松樋のある公園から南東方向、
 直線距離にして600mにいます。
ここからは城東貨物線の高架が西に見えます。
写真図1 菅原1丁目交差点の北西角 7月10日撮影


菅原1丁目交差点の北西角,
菅原6丁目です。
南西向きです。

手前に真新しい石柱が見えます。
 「増島橋」の親柱でした。


写真図2  「増島橋」の親柱(菅原6)


「最新の東淀川区」1937年10月調、夕刊大阪新聞社を
読図しますと、
 増島川の水路は「城北《ママ》貨物線」と交叉する場所で
南北二手に分かれます。
 小さな川中島の体をなします。

川が埋められた今日、北の流れの跡と思しき
大阪府道14号大阪高槻京都線(淀川通)を
東に150mほど行きますと和合公園です。
 和合公園には
「和合橋」の親柱が保存されています。
写真図3 和合公園の「和合橋」親柱(菅原3)


増島川水路の北流です。


 大阪府道14号を挟んで
和合公園の反対側(南側)、すぐに
「亀岡街道」碑が建立されています。


写真図4 「亀岡街道」碑(菅原1)


写真は北向きです。

「亀岡街道」碑から南には
 いかにも旧家と思しき屋敷構えが連なります。
その屋敷が一柳家本家です。

写真図5 一柳家本家の屋敷構え(菅原1)


写真の屋敷の左(西)が亀岡街道です。

ここで、一柳家本家で拝見した
「摂州西成郡北中嶋水道溝絵地図」を
思い起こします。
 一柳家本家には
「摂州西成郡北中嶋水道溝絵地図」と
墨書された巻物が所蔵されています。

その巻頭には
知行地の凡例に続く箇所で
「二重堤逆川」と墨書され、
 水が描かれています。
なお、この絵地図は、すでに
「中島大水道まち歩きマップ」
2015年6月、中島大水道サロン発行に
巻頭だけは写真紹介されています。
中島大水道上流の「増島川」と聞いて
歩んだ道筋は二重堤のうちの
「逆川」沿いの道だったのではないでしょうか?

どうして「逆さ」なのでしょう?
一柳家本家には、これとは別に
「慶安元年霜月十一日
  太郎兵衛 又兵衛」明記の絵地図も
所蔵されています。
それには「大淵」をはじめ、
たくさんの池が描かれています。
この中島大水道上流の地域の
原地形を反映する表示です。

写真をアップできずに御免なさい。
『大阪春秋』では
絵地図の写真掲載許可をいただきたいものです。


今日も「大淵」の痕跡を追って
大阪府道14号を
 さらに東を歩くことになるでしょう。
 『大阪春秋』東淀川区特集の
取材こぼれ話の続篇を
本ブログに書くことになるかもしれません。

究会代表 田野 登

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中島大水道起点・新太郎松樋の南東約400mの
淡路駅の地下道を抜け、
 駅の東側商店街を横断しますと、
これまた川跡を思わせる
 ゆるやかな曲線を描く道路です。
ほどなく高低差のある2本の
平行する道に出ます。


写真図1 高低差のある2本の平行する道
             7月9日撮影

写真の方向は西向きです。
 左手(南)の地面が高い方が旧淡路庄増島村。
 現在の東淡路4丁目で増島川の堤道。
 右手(北)は地面が低く旧新家村。
 現在の菅原5丁目で増島川の川床です。
この川堤、川床が中島のくびれです。
中島の下島(しもじま)と上島(かみじま)の境界です。

下島の方が上島より地面が高い?
 上下は淀川の流れに沿って
上流(北側)と下流(南側)によって区別するものです。
増島川の堤道の裏は小高くなっていて
現在は「東淡路公園」になっておりますが、
 昭和10年代の地図にはまだ、六角形の池が見えます。
 明治の測量部の地図を重ねますと
 この池の西から南に民居が集中し、
その周囲に田畑が広がっています。
 「字増嶋」とありました。

一柳正義氏に訊ねましたところ、
昭和28年の水害で淀川が氾濫した時、
この池から水が噴き出したとのこと。
底で繋がっているとのこと。
今のボクには理解不能です。

下島である増島川左岸のこの池一帯は
*国土地理院「明治期の低湿地データ」においても
低湿地の表記から外れています。
 *国土地理院「明治期の低湿地データ」
http://www.gsi.go.jp/bousaichiri/lc_meiji.html
閲覧日:2016/07/17
さらに南東に進みますと高架橋に出ます。



ここも進行方向からすれば
振り返る恰好になります。
 川跡の湾曲する道路の
左は旧増島村(東淡路5)、
 右が旧新家村(菅原5)です。

この高架は、現在、城東貨物線の高架ですが、
2018(平成30)年度末には
新大阪駅 - 放出駅間が開業すれば、
 *おおさか東線の一部路線となる予定です。
  *おおさか東線:
https://ja.wikipedia.org  
 最終更新 2016年7月22日 (金) 16:08
 閲覧日:2016年7月23日

しばらく城東貨物線の高架に沿って
増島川跡を溯ります。
 今回のゴールは和合橋跡(菅原3)です。

究会代表 田野 登


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私へのインタビューが一部記事になっていましたのでアップしました。

【日経記事2013.3.13夕刊】

http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH06002_W3A300C1AA2P00/


 「今夜はキタへ繰り出すぞ」「ミナミでタコ焼き食べよ」。
阪急梅田駅を中心とする「キタ」と南海難波駅周辺の「ミナミ」は、
共に大阪を代表する繁華街。

しかし、ふと疑問が。

なぜ、またいつから、カタカナ表記になったのか。

そもそもキタ、ミナミの範囲はどこまでを含むのだろう。地名の歴史をひもといた。

 キタ、ミナミはどこを指すか。国土地理院に聞くと「自治体が決めること」と、つれない答え。

では大阪市の判断は? 「法的な位置付けや定義はありません」(都市計画課)

 観光ガイドブックを製作する大阪観光コンベンション協会によると
「十三をキタに含めることもあれば、最近注目される天神橋筋6丁目(天六)を
キタとは別に取り上げたりします」
と西迫登マーケティング総括部長。
人や状況によって範囲が変わる融通むげな地名のようだ。

2つの街の名前はいつ生まれたのか。

大阪市史料調査会を訪ねると、古川武志調査員(日本近現代史)が
「江戸時代に遡ります」と教えてくれた。

「天下の台所」と呼ばれた大坂の中心は船場や島之内。

その北と南に、商人や武士の遊び場として生まれた街が
「北の新地(曽根崎新地)」と「南地(南地五花街)」だった。

北の新地は「北陽」という別名があったそうだ。
 ただし「時代によって範囲が違います」と指摘するのは
大阪歴史博物館の船越幹央学芸員(日本近代史)。

江戸期の北の新地は現在の北新地とほぼ同じだが、
街の発展で梅田や大阪駅周辺を含むようになった。

南地も、元は現在の宗右衛門町や櫓町。
「現在ミナミといえば、多くが思い浮かべるアメリカ村などは含まれませんでした」
 表記も時代とともに変わった。

古川さんによれば「北陽、南地では読みにくいため、
明治時代に新聞や雑誌で『きた』『みなみ』とルビが振られました」という。
後にひらがなだけで表されるようになり、さらにカタカナに転じたとみられる。

 「初めてひらがなだけで『みなみ』と表記したのは1950年、
大阪鉄道局刊の『大阪案内』のようです」と話すのは大阪民俗学研究会代表の田野登さん。

同書によると48年、大阪市などが市民投票で「大阪新八景」を選定した際、
中之島公園や大阪城と並んで「みなみ」が選ばれた。(写真キャプション略)
 カタカナの初出について田野さんは「54年の雑誌『あまカラ11月号』でしょう」と話す。
食関連の雑誌だ。
確かに「戦争前の、大阪のミナミを……」とある。

 その後「キタ」「ミナミ」の表記が広がったとみられるが、
なぜ人々に受け入れられ、定着したのか。

「ターミナル駅の形成で繁華街が従来の『北陽』『南地』の範囲を超えて拡大し、
新たな街の呼称として一般化した」と分析するのは立命館大の加藤政洋准教授(人文地理学)。

「特にアメリカ村がミナミにでき、カタカナ表記の定着につながったのでは」と推察する。


 一方、田野さんは「それぞれの街を観光地化しようとの思惑が背景」と考えている。

南地はかつて「男性向けの盛り場」という印象の街だったため、
家族連れも呼ぼうと、カタカナでイメージチェンジを図った、との説だ。

「大阪万博に向け、行政が積極的にカタカナ表記を広めた」とする専門家もいる。

 「語源や範囲はどうあれ、キタ・ミナミは単に場所を示す言葉ではありません」。

古川さんは強調する。

「住民の愛着や帰属意識をかき立て、訪れる人はそれぞれのイメージを膨らませる。
そんな不思議な表現です」。

日々変貌する街の姿を何とか言葉に写し取ろうとの人々の思いが、
カタカナ表記には込められているのかもしれない。

(大阪社会部 藤井将太)
[日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西2013年3月13日付](以下略)


晴耕雨読 -田野 登-

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2,012年9月5日現在までに書いてきたものの目録をここにまとめておきます。

図 書

◎『大阪のお地蔵さん』渓水社 1994
◎『水都大阪の民俗誌』和泉書院 2008

  共著
◎『民間の地蔵信仰』大島建彦編 渓水社 1992
  「大阪市西区の地蔵信仰調査報告書」
◎『新修池田市史 第5巻』池田市 1998
  「近郊農村とマチ・都会-昭和初期の鉢塚」
  「郊外住宅の都市民俗-室町の昭和初期-」
◎『都市民俗生活誌 第2巻 都市の活力』倉石忠彦編著 明石書店 2003
  「第1章 路地裏と職人:解説」
◎『井手至先生古稀記念論文集』和泉書院 1999
  「「餓鬼島」考-菅公潮待ちの伝承-」

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雑 誌

『市岡紀要』/『大阪春秋』/『大阪人』/大阪都市工学情報センター/
『大阪の歴史』(大阪市史料調査会)/『大阪府立図書館紀要』/
『会報』(大阪市立大学国語国文学会)/『近畿民俗』/
『月刊 住職』/『月刊 歴史手帖』/『四条畷紀要』/『新国語研究』/
『都市文化研究』/『都市民俗研究』/『図書館報』(大阪府立盾津高等学校文化部)/
『日本民俗学』/◎『福島てんこもり』/『まほら』/『まんだ』/『民俗文化』

 ***********************************

◎『市岡紀要』大阪府立市岡高等学校
 第4号:1986:地蔵調査にみる港区の戦災

◎『大阪春秋』大阪春秋社→新風書房
 第55号:1988.12:大阪市西区の地蔵信仰の目録①
  ―民俗誌のための一資料―:桑原尚志との共同執筆
 第61号:1990.08:大阪市西区の地蔵信仰の目録②:桑原尚志との共同執筆
 第63号:1991.03:大阪市西区の地蔵信仰の目録③:桑原尚志との共同執筆
 第64号:1991.07:大阪市西区の地蔵信仰の目録(完):桑原尚志との共同執筆
 第70号:1993.03:京橋駅界隈原風景(上)
 第71号:1993.06:京橋駅界隈原風景(下)
 第74号:1994.03:不思議の浪花の弥次喜多道中①
 第76号:1994.09:不思議の浪花の弥次喜多道中②
 第77号:1995.01:不思議の浪花の弥次喜多道中③
 第80号:1995.10:阪神電車の消えるトンネル
 第86号:1997.03:生業の聞書(一)―船場周辺の篇―
 第87号:1997.06:生業の聞書②―川筋の篇
 第88号:1997.09:生業の聞書③―拾遺篇(上)
 第89号:1997.12:生業の聞書④(最終回)―拾遺篇(下)
 第91号:1998.09:続生業の聞書-アジアに活躍する徳島県・伊島の潜水技術-
 第94号:1999.09:難波浦の神仏諸霊―水都の習俗と伝説―
 第98号:2000.03:冠辞「水都」考―大都会のパラダイム変換を読む―
 第101号:2000.12:商人の心得(前編)
 第101号:2001.03:商人の心得(後編)
 第110号:2003.03:南浦江の寺院の石造物(前編)
 第112号:2003.09:南浦江の寺院の石造物 (後編)
 第118号:2005.04:麓のマチの祈祷師たち-霊気蠢く石切参道-
 第121号:2006.01:御神酒の効用
 第124号:2006.10:下寺町界隈探訪記-崖下のマチ・下寺町の聖地性-
 第129号:2008.01:高齢化社会の願掛け治病-四天王寺布袋堂いまむかし-
 第131号:2008.07:ゆらめく〈ミナミ〉イメージ-観光ガイドブックから検証する
 第132号:2008.10:失われし水都の情景
 第133号:2009.01:島之内旧家の正月行事
 第134号:2009.04:諸国船問屋街の賑わい―堀江「下博労町」探索―
 第134号:2009.04:堀江・立花通今昔 「福井タンス」大中幸子さん聞き語り 髙橋愛典氏と共同執筆
 第134号:2009.04:失われし水都の情景―初代長谷川貞信『浪花百景』を読み解く―<承前>
 第135号:2009.07:失われし水都の情景―初代長谷川貞信『浪花百景』を読み解く―〈最終回〉
 第135号:2009.07:書評 茶谷幸治著『まち歩きが観光を変える―長崎さるく博プロデューサー・ノート―』
 第136号:2009.10:大阪観光史試論
 第136号:2009.10:コミュニティ・ツーリズムの醍醐味
 第138号:2010.04:新町曲輪「足洗い井戸」言説の検証-民俗語彙から解く-

◎『大阪人』大阪都市工学情報センター
 第63巻1号 2009.01:川筋に息づく水都の暮らし

◎『大阪の歴史』大阪市史料調査会
第69号:2007.08:築港行き市電沿道いまむかし

◎『大阪府立図書館紀要』:大阪府立中之島図書館・大阪府立中央図書館
 第36号:2007.03:翻刻『浪華奇談』怪異の部

◎『会報』大阪市立大学国語国文学会
 第32号:1986.01:都市異聞
 第51号:2005.01:「都市異聞」続稿

◎『近畿民俗』近畿民俗学会
 第106号:1986:大阪市港区の地蔵信仰に関する調査報告
          大阪府立市岡高校都市文化研究会による調査」
 第111号:1987:漂着した地蔵とその町内の人々-都市の民俗の発生と継承の一事例
 第116号:1988.06:大阪市西区の地蔵信仰調査報告書
 第151・152号:1998:川筋の生業の世界-大阪市港区・大正区の瀬戸内出身者-
 第158・159号:2000.03:女工の暮らした「近代都市」-大阪市此花区を中心とする時空間-
 第162・163号:2000.12:都市の生業に見る歳事習俗
 第168・169号:2003.09:大阪における都市民俗の展開-郷土研究誌『上方』を軸に

◎『月刊 住職』金花社
 160号:1987.08:幾多の受難にもめげず地蔵さんは生きている

◎『月刊 歴史手帖』名著出版
 第?号:1985:大阪市港区の地蔵信仰-「拾い地蔵」とその風土-河野憲一との共同執筆
第1号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア①地蔵の数
 第2号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア②地蔵さんのいます場所
第3号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア③地蔵マップ今昔
 第4号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア④井戸端のお地蔵さん
第5号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア⑤火除地蔵異聞
 第6号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア⑥北向地蔵考
第7号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア⑦子安の地蔵
 第8号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア⑧霊異なる石
第9号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア⑨石の意思
 第10号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア⑩人名を冠する地蔵尊
第11号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア⑪祟り神考
 第12号:1988:都会の地蔵さんのフォークロア⑫拾い地蔵考

◎『四条畷紀要』大阪府立四条畷高等学校
 創刊号:1987.11:大阪市港区の地蔵祭祀の目録
 第2号:1989.11:「子安地蔵出現由来」注釈

◎『新国語研究』大阪府高等学校国語研究会
 第31号:1986.05:地蔵盆踊り小景
 第34号:1990.05:玉鉾の京橋駅界隈

◎『てつろ』大阪府立四条畷高等学校鉄道研究部
 第20号:1986.06:駅名論のための覚え書き-大阪環状線を対象にして-
 第21号:1987.06:四条畷駅と畷高との関係
 第22号:1988.06:京橋駅界隈原風景-野崎参りや七墓参り-
 第23号:1989.06:狸電車唄考-文明に遭遇した妖怪たち-
 第24号:1990.06:野崎参りは学研都市線でまいろ

『都市文化研究』大阪都市文化研究会
 第1号:1987.04:都市文化研究会の名称のこと-会誌の創刊に寄す-/1/3
 第2号:1987.09:戦前の高津界隈の地蔵祭祀目録-船本調査報告に基づく-/6/11
 第4号:1988.10:『神仏霊験記図会』にみる願掛作法の目録
           -近世大坂の民間信仰研究の一資料-/1/13
 第5号:1989.06:仏像由来の文献伝承の構成-『摂陽群談』寺院の部に関して-/1/14
 第6号:1989.11:地蔵信仰調査マニュアル
          -初心者による民間信仰調査のために-/桑原尚志と共同執筆/33/5
 第6号:1989.11:託宣さまざま-祭祀由来の構成要素として-/23/10
 第7号:1990.06:東都漫録-都市の文化を考える-/19/3
 第8号:1990.12:昭和30年頃の福島界隈-マチの子の領分-/1/6
 第9号:1991.06:外来者覚書-町内に齎したものの考察-/5/6
 第10号:1991.11:波除伝承考(前編)-新開埋立地の伝承の実態-/1/10
 第11号:1992.06:波除伝承考(中編)-新開埋立地の伝承の実態-/9/8
 第12号:1992.12:パネルディスカッション再録 大阪の都市民俗の事例/35/3
 第13号:1993.06:波除伝承考(後編)-新開埋立地の伝承の実態-/23/15
 第14号:1993.12:チンチン坂から見た都会
          -昭和初期の池田市鉢塚を中心とした民俗空間-
 第15号:1994.12:大阪町家の子供の世界-宮本又次「生い立ちの記」の民俗空間
 第16号:1995.12:『江戸神佛願懸重寶記』影印の翻刻解説/30/10
 第17号:1996.06:ケガレ除去の都市民俗-宮田登『江戸歳時記』に遊ぶ-/1/16
 第18号:1996.12:都文研の本棚 加地伸行『儒教とは何か』/47/3
 第20号:1998.03:生業の都市民俗/1/17
 第22号:1999.10:沖縄出身者の年中行事 -異文化受容の諸相/2/10
 第23号:2000.04:大阪市中の民俗記事の紹介(前)
          -郷土誌『上方』『大阪春秋』に関して-
 第24号:2000.11:大阪市中の民俗記事の紹介(後)
          -郷土誌『上方』『大阪春秋』に関して-/34/11
 第25号:2001.06: 郊外住宅の都市民俗(前編)/20/10
 第25号:2001.12:郊外住宅の都市民俗(後編)/35/13
 第27号:2002.12:サッカーW杯の人間学-応援に見る共同体意識ー
 第29号:2010.04:弘化二年刊『大阪名所廻』(大阪府立中之島図書館所蔵本)翻刻-近世大阪の物見遊山-
◎『都市民俗研究』都市民俗学研究会
 第7号:2001.03:商人と社寺―大阪の都市民俗の一考察―

◎『図書館報』大阪府立盾津高等学校文化部
 第22号:1997.10:なみはや伝承

◎『日本民俗学』日本民俗学会
 第188号:1992.11:降臨石系統の伝説―近世地誌に見る伝説の構造分析―
 第211号:1997.08:「梅田牛駆け粽」考-都市生活者から見た農村行事
 第218号:1999.05:川施餓鬼の都市民俗-河海での神送りと遊覧-
 第225号:2001.02:「郷愁」の企業化に関する形象の考察
           -大阪道頓堀かに料理店の場合-
 第249号:2007.02:都心周辺部にみえる岩見重太郎伝説
           ―野里住吉神社一夜官女祭に関する言説の変容―

◎『福島てんこもり』福島てんこもり
 第11号:2004.07:老父を支えるご近所ネット
 第13号:2006.07:老父とめぐるふるさと今昔

◎『まほら』旅の文化研究所
 第20号:1997.07:水都の異界を覗く

◎『まんだ』まんだ編集部
 第39号:1990.03:下町地蔵紳士録
第40号:1990.07:下町地蔵紳士録(二)
 第41号:1990.11:下町地蔵紳士録(三)
第42号:1991.03:下町地蔵紳士録(四)

◎『民俗文化』近畿大学民俗学研究所
 第3号:1991.03:森栗茂一著『河原町の民俗地理論』
 第16号:2004.03:森栗河原町都市民俗論の検証
          -森栗茂一著『河原町の歴史と都市民俗学』書評

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