晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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今回も*「エビス陳情書1801」の続きを読みます。
  *「エビス陳情書1801」
  :「享和元年蛭児之宮神祭取締リ請印形帳」
    野村豊、1958年『漁村の研究-近世大阪の漁村-』三省堂

 

往時の夏祭りについての記事です。

◇則尓今野田川と言伝へ候程之土地ニ而、
 其砌より夏越之祓與唱、
 新家迄御輿・太鼓・地車等持行、

  則新家ニ御旅所も有之

 

「今野田川と言伝へ候程之土地」とあります。
「今」は、請印形帳をしたためている時点ですので、
享和元(1801)年酉六月です。
当時、「野田川」の川の名称は
:すでに「言伝へ」だったと読み取られます。
これについては後にも触れます。

 

《大阪福島「野田城」の空間(6)

 :2018-02-14 16:01:43》に挙げた
「難波往古図」のように
近世の想像図には
「野田川」は描かれていました。

 

「其砌より夏越之祓與唱」とあります。
「其砌」が、いつの時なのかは、
これまた後回しとして、
「夏越之祓與唱」とは夏祭りと称して、
新家まで
御輿・太鼓・地車などを「持行」とあります。
「持行」とありますが、如何なる方法で、
新家の「御旅所」まで運んだのでしょう。

 

引用文の続きを読みます。
いつか挙げた箇所です。
◇其砌より当村内弓場町と申所ニ
 御輿人足出し来り候、
 東町と申者太鼓人足出し来り候、
 堤町・大野町・奥町・北野町四町者
 地車四ツ出し来り候、

 

《大阪福島「野田城」の空間(2)

 :2018-01-30 14:58:21》に
挙げた箇所です。
御輿をはじめ
供奉する町内が挙げられています。
いっぽうで、迎える新家側は如何でしょう。

 

引用文の続きを読みます。
◇新家者幟提灯ニ而、
 右御輿御迎ニ参リ、
 則野田西ノ口と申所より
 御船ニ而
 新家御渡有之候儀
 古例ニ御座候、

 

新家は幟、提灯を仕立てて
「御輿御迎」に赴いたとあります。
迎えに出た場所は
「野田西ノ口」という場所です。
「御船ニ而新家御渡」とあります。
船渡御です。
「野田西ノ口」の「口」は
船着場です。

 

「口」が船着場となれば、
森隆男『クチとオク

―住まいの民俗学的研究の一視座―』
(2017年3月清文堂)の記事が気になります。

 

《*『クチとオク

―住まいの民俗学的研究の一視座―』を読む(4) 
:2018-01-28 11:00:03》に
「最終章《第四章 集落に伝承されるクチ―オクの観念》」の
次の箇所を引用しました。
 *『クチとオク―住まいの民俗学的研究の一視座―』
  :森隆男、2017年3月30日初版発行』清文堂

◇城下町を一つの空間とみなしたとき、
  船着場も重要なクチといえる。

 

次回は、
再び*藤 三郎「野田城と戦国三好一族」の記事との
照合をします。
      *藤 三郎「野田城と戦国三好一族」
    :『なにわ福島ものがたり』

    福島区歴史研究会、2012年初版

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 

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今回は*「エビス陳情書1801」の続きを読みます。
  *「エビス陳情書1801」
  :「享和元年蛭児之宮神祭取締リ請印形帳」
    野村豊、1958年『漁村の研究-近世大阪の漁村-』三省堂
   
前回、取り上げたのは、以下の箇所です。
◇往古海辺ニ而野田川と申、
  則当村新家ニ船方問屋跡も有之、

 

「野田川」については、
いずれ船渡御の箇所で触れます。
今回は「船方問屋跡」です。

 

これに続く箇所で
これは明らかとなります。
◇尓今大坂通船之上荷船所持仕、
 尤百姓作間ニ漁仕来リ、
 往古海辺ニ而
 諸国廻船入津之場所ニ而御座候、

 

大坂への通い船としての
上荷船を保有していたとあります。

上荷船は、

小分け輸送の船で

大船から積み替え宅配便やないけれど

小回りが利く船です。

 

野良仕事の合間に漁に出るというのは、
建前上のことで方便でして、
再び、往時の当地が海辺であったことを挙げ
「諸国廻船入津之場所」であったことを
したためています。

 

「諸国廻船」となれば、
中津川の対岸・右岸(西岸)の伝法の
往時の賑わいを想像します。

 

*地名辞典の「伝法」の項に
次の記述があります。
 *地名辞典:『角川日本地名大辞典27』1983年

◇(上略)*文録~元和年間(1592~1623年)
 当村の上荷船は町奉行から公認されていた。
 *正保年間(1644~1647年)当村の船が
 酒を積んで江戸に向かったのが樽廻船のはじめであり、
 佃屋与治兵衛をはじめとする廻船問屋が開設された。
 *安永年間(1772~1780年)には
 樽廻船問屋は村内に10軒あり、
 菱垣廻船は衰退していった。

 

いま、「エビス陳情書1801」にある
新家の「諸国廻船跡」を考えていますが、
瀬戸内の海路からすれば、新家は
伝法の奥(オク)の入江に当たり、
野田、福島、中之島を経て、
大坂城下の口(クチ)に当たります。

近世にあって平時の野田新家は、
「尓今」すなわち享和元(1801)年にいたるまで
上荷船を擁する物流拠点であったことは
確かです。

 

次回は、
「享和元年蛭児之宮神祭取締リ請印形帳」にあって
肝心の祭礼についての記事をとりあげます。
新家の「御旅所」が出てきます。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 

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前回、「出発点の「新家」に戻って
*「享和元年蛭児之宮神祭取締リ請印形帳」を
仔細に読むことを宣言しました。
  *「享和元年蛭児之宮神祭取締リ請印形帳」
  :野村豊、1958年『漁村の研究-近世大阪の漁村-』三省堂
      「エビス陳情書1801」と略記。

 

◇往古海辺ニ而野田川と申、
 則当村新家ニ船方問屋跡も有之、

 

まず「野田川」に注目します。
如何なる場所を流路としたのでしょうか?

写真図 「難波往古図」
      玉置豊次郎 1980年『大阪建設史夜話』(大阪都市協会)
      第一図 「難波往古図」河州雲茎寺什物
      大阪府立中之島図書館所蔵

「難波往古図」の「往古」は、
近世からみての「往古」であって
想像図であります。

 

往古図の読み方につきましては、
《「海老洲」の載る地図  2016-09-01 17:28:32》に
書き写し間違いや
書写段階での書き加えもあると指摘しました。

じじつ、「難波往古図」の中央やや上の
右から左に「野田郷」があり、その左(西)に
「野里」とあります。
これは、明らかに「里」は「田」の誤記です。
「野里」の左下に
右から左に「野々川」が見えます。
これは「野た川」、「野田川」を指すと解釈します。

 

「難波往古図」という想像図では、
堂嶋、福嶋に「野田郷」が東から西に
地続きで描かれています。
「野田川」を挟んで洲が見えます。

 

「野田川」の末は海です。

「エビス陳情書1801」にある
「往古海辺ニ而野田川・・・」と
矛盾はしません。
文も図も
近世人の想像する、
往古の「野田川」です。

 

その水辺の集落に
享和元(1801)年に船方問屋の「跡」が
有るというのです。

芦間から往時の新家が見え始めます。

 

次回、「船方問屋跡」を記憶にとどめ、
「エビス陳情書1801」の続きを
読みます。

 

たった今、阪俗研の会友で
通算20号を刊行した『福島てんこもり』編集長
樋口 文さんから
野田村の貴重な資料が届きました。
ボクの探索した野田川跡との照合が
急がれます。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 

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前回、*『寛永諸家系図伝』の
慶長19(1614)年の大坂冬の陣記事の
幕府軍の足どりを追う作業を通じて
野田新家の近世大阪における位置づけを
試みると記しました。
   *『寛永諸家系図伝』:『寛永諸家系図伝』第10、九鬼守隆、
            (続群書類従完成会、1986年)

 

同書記事を続けます。
◇*翌日、井楼を攻とり、
 首七級・生虜(ルビ:いけとり)三人ならひに
 舟奉行佐々淡路守が舟じるし〔半角割注:鳥毛の棒〕・
 大船二艘〔半角割注:福嶋丸・伝法丸〕・
 兵船数艘をとり、
 すなハち勝山・岡山にいたりて
 大権現・(秀忠)台徳院殿の尊聴に達し、
 御感の仰をかうふる。
 すなはち福嶋をもて陣場とす。
    *翌日:慶長19(1614)年11月29日

 

徳川方は
一日がかりで「福嶋」を攻め落とします。
新家から福島までの間、
「井楼」を攻め取ります。
防禦は、けっして城廓ではなく、
「やぐら」のような簡素な施設です。
「野田城」は
すでに廃城であったのでしょう。
兵卒を斬り落とし、生け捕りにし、
「大船二艘・兵船数艘」を略奪します。
この戦闘は水路を場とする船戦であったのです。

 

福島に陣取って以降の徳川方の足どりは
同年12月1日の記事から読み取られます。
◇同十二月朔日、難波橋にせめいる。
 先手ハ高麗橋にありて鉄砲をハなつ。
 翌日、五分一嶋を陣場とし、
 難波橋にをひて鉄砲をはなつ事三日なり。

 

「五分一嶋」を中之島に比定する説があります。
写真図1 中之島六丁目のテニスコート脇の説明板
     
「・・・中之島の起源については、
 古くから豊臣・徳川の大阪の陣に際し、
 「五分一島(ルビ:ごぶいちじま)」と
 呼ばれ陣場とされていたが・・・」と
記されています。
残念ながら、いつ、誰が立てたのかは不明です。

 

ここまでの幕府軍の進軍経路を
まとめますと
〈新家→葭嶋→福嶋→
 五分一嶋→難波橋→高麗橋〉となります。

 

今日、西の此花区、

東の福島区のどちらからも

周辺に追いやられている感じのする「新家」が

近世初期にあっては、
軍事的に如何に重要な地点であったかは、
明らかです。

 

写真図2 大阪市都市環境局 西野田抽水所門扉
     住居表示に注目
     福島区と此花区の境界を示す。

 

次回、出発点の「新家」に戻ります。
貞享元(1684)年、開削の安治川(新堀)以前の
地勢、とりわけ水路に注目します。

 

『第一西野田郷土誌』1935年には、
「徴証とすべき古記録が存じてゐない」と記された
新家への渡御について、
「享和元年蛭児之宮神祭取締リ請印形帳」を
仔細に読むことにします。
「新家」を中心に据えて
大阪の西北部の町を見た場合、
如何なる空間が立ち現れるのかを
試してみたいのです。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド  田野 登

 

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いよいよ「澪標園」です。
『市岡五十年史』1951年、玉田義美編纂兼発行の
掲載写真はこれです。

写真図1  「澪標園」
    キャプションは「澪標園(昭和六年)」
    大阪府立中之島図書館所蔵使用許可済み

「昭和六年」といえば、
ボクが生まれる、およそ20年前で、
入学する34年前です。
入学当時、いまだこの写真の面影を
残していました。

 

東からのアングルです。
手前は花壇。
その先には築山が見えます。
築山には石碑があり、
水が廻っていた記憶があります。

 

『市岡五十年史』の記事を抜きます。
◇次に*昭和6(1931)年
 創立三十周年記念事業として
 澪標園の築造と
 体育館の新築とが実施せられた。

 

「次に」とありますのは、
新校舎竣工に引き続き
昭和2(1927)年5月29日の
プール竣工に続いてのことです。
「澪標園の築造」とありますが、
これは二代目でした。

 

引用文を続けます。
 ◇嘗て創立十周年記念として
 澪標園が造られたのであるけれども、
 不幸にしてそれは
 火災に続く校舎新築の為、
 記念館を残す他、
 全く跡かたも無くなっていた。
 今こゝに第二代の澪標園が新築されたのである。

 

「火災に続く校舎新築」は、
前号に記しました。

 

今思えば、在学当時、
古びた校舎や中庭は、
昭和初期につくられた、
二代目の施設だったのです。

 

引用文を続けます。
 ◇場所は南北両館の中庭約200坪、
 即ち職員テニスコートのあった土地、
 職員室の北側に当る。
 中央に築山を築いて、
 その三方に泉水をめぐらし、
 山の頂に初代澪標園の記念碑が建てられた。
 これだけの形は殆んど十周年の時と同じであるが、
 その東に洋式の花壇が続いてゐる。
 灘山本村日の出花壇の設計で600円を要した。
 これで予て校の内外から要望せられていた
 緑化が幾分実現した訳である。

 

「中央に築山を築いて、
 その三方に泉水をめぐらし、
 山の頂に初代澪標園の記念碑が建てられた」のは、
創立十周年の時と、ほぼ同じだとあります。
創立十周年の時とは、1911年、明治44年です。
今も校舎の片隅に残る
「初代澪標園の記念碑」の碑文を
読みたい思いに駆られます。

写真図2 初代澪標園の記念碑

市岡高校20期生は
今春、卒業50年を迎え、
卒業式に招待され
引き続き懇親会を開きます。

 

同窓会からの郵便物が
届かなかった方々も
  ↓ここをクリック
https://www.reihyo.com/
市岡高校同窓会HP「澪標」の
「20期生の懇親会のお知らせ」

 

私たち懇親会世話人一同、
一人でも多くの方々と再会できることを
楽しみにしております。

 

究会代表
 『大阪春秋』編集委員 田野 登

 

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