晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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ご希望の方は、氏名、電話番号をお書き添えの上、tano@folklore-osaka.org
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8月の初旬でしたか、
一冊の分厚い書籍が送られてきました。
昨年、文化功労者の顕彰を受けられた
民俗学者の野本寛一先生からの書籍でした。


野本先生からは20年来、
励ましのおことばをいただいております。

御恵与いただきましたのは以下の書籍です。

野本寛一著、2016年7月25日発行
『季節の民俗誌』
玉川大学出版部 A5版 465頁


今年のお盆、先祖祭りに
実家に籠もった折、
持ち帰って拝読しました。
その時の感動は、独り占めできないと思い
《『季節の民俗誌』に知る暮らしの古典》と
題しシリーズとして
ブログアップすることにしました。


ボクの読書は、いつも
跋文の次にあとがきを読むことから始めます。
あとがきに当たる〈終章 季節の風を受けて〉に
次の記述があります。

●本書で紹介してきた
 堅雪渡りのころの少年・少女たちの遊びは
 じつに多彩で、彼ら、彼女らの五感は全開し、
 心も体も躍動していた。


「堅雪渡り」という言葉は
戦後、大阪市内で育ったボクには
耳の底にもありません。
雪など降っても根雪になることなど
まずあり得ません。


引用文の続きを載せます。
●現今、味覚異常の子どもたちが
 増加しつつあるという。
 人生の基礎が培われる時代にこそ、
 人は自然のなか、四季と季節のめぐりのなかに、
 おのれを深くさらされなければならないのだろう。
 都市や都市化した暮らしのなかでも、
 こどもたちをできるだけ季節の子にしてやりたい。


いきなり、この箇所を載せたのでは
誤解を招きかねません。
じじつ、ボクも読んでいて
しばらくは『季節の民俗誌』の世界に
入り込めずに想像力をめぐらすのが
しんどいでした。


読み進みますと次の記述があります。
●社会環境や生活様式の著しい変容のなかで、
 かたちを変えようとも
 継承してゆかなければならないものがある。
 いまはその方途を真剣にさぐるべきときである。


ずいぶん意気軒昂と思われる文章を挙げました。
「かたちを変えようとも
 継承してゆかなければならないもの」とは
いったい何でしょう。
ボクは、それを「暮らしの古典」と
名付けることにしました。


次回は、
「堅雪渡りのころの少年・少女たちの遊び」を
取り上げます。
雪の降り積もらない街に育った
ボクにとって興味津々です。


民俗学は自省の学です。
未知の世界を経て
ちゃんと自分の世界に戻って来ます。
次回をお楽しみに。


究会代表 田野 登

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究会では
今秋、3回連続講座
「シニアのための民俗学入門」を始めます。


今や、団塊の世代のシニア・アクティヴが
生涯学習に熱心な時代です。
今から何を始めようか?と
迷われることはありません。
今までの人生経験から得た知見を
「再発見」することから始めるのはいかがですか?
昭和の情景が
だんだんと遠のいてきました。


民俗学は
自文化を内省する学問です。
お正月やお盆に
科学文明が発達し、
都市生活が進展した今日でも
神さんやホトケさんをお祭りします。
そのいっぽうで
冠婚葬祭が変化しています。
昔の仕来りを忘れかけています。
大阪では地蔵盆には祠の前で
踊ったりもしたものです。
今ではどうでしょう。


シニア・アクティヴのみなさんに
昭和25年早生まれのボクから提案します。
今こそ、「自文化」を再認識しましょうと。


2016年秋のセミナー要項案
「シニアのための民俗学入門」
第1講:9月17日 pm7:00~9:00
  田野 登「民俗学のすすめ」
第2講:10月15日 pm7:00~9:00
  濱田時実氏 (仮題)「神社祭祀を再考する」
第3講:11月19日 pm7:00~9:00
 岸田史生氏 (仮題)「画集『大阪城八景』が拡げる民俗的知見」
資料代実費等:1回500円
会場:福島区民センター
   
http://loco.yahoo.co.jp/place/g-z26RRBgFl2I/map/?utm_source=dd_spot


興味をお持ちの方は
ブログトップの
 
tano@folklore-osaka.org までご連絡下さい。

昔に関心のある若い研究者も歓迎します。


究会代表 田野 登

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昨日、住職からハガキが届きました。
住職もお盆の行事でおいそがしかったのでしょう。
9月3日(土)、あと10日後の浦江塾の案内です。

講師がいなければボクがする。
毎度のことです。
写真図  浦江塾の案内のハガキ



文面は以下のとおりです。
郷土誌を見直す『浦江塾』のご案内
 大阪市内は上町台地が南北に走り東西は水辺でした。
すっかり都市化した現在にあっても地名には島、洲や
水辺が偲ばれる地形が残っています。伝承古代の島の
田蓑島は禊の島とも言われ、浦江八坂神社付近の説も
あります。時代により利用目的が変わる島々を考えます。
    
 日時 9月3日(土曜日)午後7時より9時迄
 場所 妙壽寺(福島区鷺洲2-15-10)駐車可
 テーマ 「島洲の街・大阪―福島区・北区版」
       大阪民俗学研究会代表 
               文学博士 田野 登先生
終了後、情報交換等の雑談を行います。ご参加下さい。


以下、田野による書き込み。
一昨日、大阪城南女子短期大学公開講座
「大阪の夕陽信仰」では
上町台地の高台の話もしました。

大阪という「坂」の付く地名ですが
広い高台は上町台地の一筋に伸びる
洪積層を基盤とする地域だけです。
大阪は埋立都市なのです。
基盤は軟弱な沖積層です。
防災の点からみれば
かなり、ゆるゆるで危ない都市です。


今、手許に
*国土地理院「明治期の低湿地データ」があります。
 *国土地理院「・・・データ」:

 http://www.gsi.go.jp/bousaichiri/lc_meiji.html

このデータには次の記述があります。
●ここで言う「低湿地」は、
 河川や湿地、水田・葦の群生地など
 「土地の液状化」との
 関連が深いと考えられる区域です。


このデータから大阪市内を抽出します。
低湿地の表記は黄色なのですが、
上町台地の高台および

船場・島ノ内を含む
旧大坂三郷の外側は、
ほぼ真黄々です。
 

福島区近辺で黄色でないのは

西区の木津川以東、
西区から此花区にかけての
元の「九条島」周辺など
限られています。

福島区域では
旧中津川左岸および野田新家

海老江の八坂神社、南桂寺周辺
玉川の野田戎、極楽寺・円満寺周辺
福島では下天神社から旧蜆川・堂島川沿いから
JR福島駅あたりが北限で
鷺洲ではJR東海道線周辺の妙壽寺と
北区の旧大仁から
北浦江にかけての一角ぐらいです。


この「非低湿地」が、いかほど島・洲を
反映するものかは
当日、お話しする中で
少しは明らかになるでしょう。


コンテンツは次のとおりです。
0 解題「島洲の街・大阪」の対象
1 地図に見える「シマ」
2 大阪市内の地名「島・洲」
3 伝承古代の「島」
4 近世名所絵の「島」
5 「島」の近現代
6 埋立「洲」に見える現代
7  島洲への「観光」のまなざし


いつもどおり
参加手続き無用、参加費無料です。
30人ほどの資料は用意します。
初参加の方、歓迎します。

究会代表 田野 登


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『摂津名所図会』「家隆塚」の本文で
まず確認したいことは
この墳丘は
いつ、誰が築いたのかです。


本文の家隆詠歌に続く箇所に
次の記述があります。
●此詠より地名を夕陽山といひけるにや
 又享保年中安井御門跡大僧正道恕公の御撰の碑を
 四十二世秋野坊法印盛順こゝに建てられしなり


建碑の事情はわかりました。
享保年間当時の仏教界の
重鎮であった僧道恕が撰文をしたため
四天王寺秋野坊法印盛順が建碑したということです。
僧道恕の撰文に墳丘の事情を探ります。
次の記述があります。
以下の引用文は
森修編集、1980年『日本名所風俗図会10』角川書店の
記述によります。

●詰旦に澡浴して衣を更へ日想観に住す。
 酉の尅端坐合掌して真身迎接を睹るがごとく、
 安祥にして逝す。報齢八十歳。


ここまでは家隆臨終の記事です。
引用文の続きを載せます。
●留めてその居に葬る。
 植うるに松を以てし、
 歳寒の心に標す。
 人をして永く勿翦(ブツセン)を懐はしむ。
 今を去ること四百有余歳、遺阯猶存す。


その住居に葬ったと読み取られます。
墓域に松を植えたとあります。
その遺跡が400年後も「猶存す」とあります。
何やら『摂津名所図会』「家隆塚」の
挿絵と重なります。

引用文の続きを載せます。
●しかうして荊棘の穢す所、
 鞠(そだ)ちて樵竪の区と為る。

400年の歳月を歴て荒れ果てて居たと述べます。

引用文の続きを載せます。
●近日詞客の徒、
 徳音を翹慕し竪珉に勒するに文を以てし、
 節祭を設くるに饌を以てし、
 後に廃すること勿からしめんと欲して
 辞を予に丐ふ。


この荊棘の生い茂る場所を
墳丘として整備することを
促したのは「詞客の徒」、当時の文人墨客であったようです。
家隆を追慕する歌人があって
「家隆塚」が祭祀されたのです。

ここに祭祀の再興を
ボクは読み取ります。
墳丘を築いたのは
いつ誰なのか?

本文に拠る限り
「留めてその居に葬る。
 植うるに松を以てし、
 歳寒の心に標す」の
記述の外、手がかりは得られませんでした。
これが「大阪府史跡 伝藤原家隆墓」の記す
「鎌倉時代の歌人藤原家隆を
 葬ったところといわれる」の所以です。


今いちど家隆臨終の詠歌に戻り
場所の検証をしましょう。
管見による初出は
建長4(1252)年成立『十訓抄』(岩波文庫、1942年版)でした。
詞書から載せます。
●近は、壬生二位家隆卿、
  八十にて
 天王寺にて
 終り給ひける時、
  七首の歌をよみて廻向せられける。
  臨終正念にて其志空しからざりけり。
  其内一首云
 

契あればなにはの里に移り来て
 波の入日を拝みつるかな


場所は「天王寺」としか記されていません。
「波の入日」を拝んだ場所は
はたして「大阪府史跡 伝藤原家隆墓」なのでしょうか?

明日、大阪城南女子短期大学で

「大阪の夕陽信仰」を話します。


究会代表 田野 登

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まず取り上げますのは
1799年刊『摂津名所図会』「家隆塚」の挿絵です。

勝鬘院の多宝塔が描かれています。
その北西に家隆塚が見えます。
東側に松の植わった小山があります。
墳丘でしょう。

その前に碑が描かれています。
これを「享保」の文字の刻まれた
屏風型墓碑と推定します。
この配置からは
西側から塚に詣でることになります。


この築山の周囲は
東からと南からの路が
描かれているだけです。
東に通じる路には
鍬を担げた農民が一人見えます。


描かれていないのは
口縄坂に沿った寺々です。
家隆塚の周囲に建造物が
描かれていないというのは、
その周辺に
家隆塚との関連を
絵師が認める建造物が
ないということです。
建造物があったとしても
絵師に認知されていないのです。


古地図に表記されていた
浄春寺、夕陽庵(夕陽寺)などの寺院が
描かれていないのです。
それに塚の東の
石柱「家隆卿舊跡 夕陽庵」の立つ
柵囲いも描かれていません。

実際に柵囲いの施設が
当時、設けられてなかったのかもしれません。


ここまで
『摂津名所図会』「家隆塚」の挿絵を読んだ上で
本文に戻ることにします。


究会代表 田野 登

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