このブログに御訪問頂き、誠にありがとうございます。
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さて、昨日、すなわち、7月22日(水)の「粗食」のブログ
の冒頭に記させて頂きましたように、母親によりますと具合がわるいとのことですので、引き続き大事にしてもらっています。
ときに、去る4月26日(日)の「モン・サン=ミシェル(仏)」のブログ
の最後に、
「(前略)このブログの冒頭に記させて頂きましたように、この前日はベルギーの古都であるブリュージュに居まして、この日、モン・サン=ミシェルの滞在は半日であり、夜行列車で、前述のようにパリを素通りして、蘭方面に向かいました。モン・サン=ミシェルのために往復したような行程になり、この次の日は、蘭の首都であるアムステルダム(蘭語:Amsterdam)に到着しました。当時、ユーレイル・パスを用いて夜行列車に乗ることは、ホテル・ユーレイルと言われていました。夜行列車を用いることで、時間と宿泊費を節約することが出来ます。但し、これは若い頃に出来ることであり、年輩の方にはぉ勧めしません。やはり宿泊所で、たとえ短時間でも睡眠をとることが望まれます。
機会がありまして、宜敷ければ、続きを記させて頂きます。唯々感謝。(^-^)」と記させて頂きました。そして、誠に有り難いことに、「いいね」を頂きましたので、今回、その続きを記させて頂きます。
前述のように、ユーレイル・パスを用いて、昭和63年(1988年)(菜食を始める前のことです)8月27日【土】・朝に、蘭の首都であるアムステルダムに到着致しました。因みに、ユーレイル・パスのことは、去る1月24日(土)の「アテネ(ギリシャ)へ」のブログ
の中段やや下に記させて頂きました。
去る5月3日(日)の「アムステルダム・3(蘭)」のブログ
の中段やや上で、
「(前略)国立ゴッホ美術館周辺のことは、去る4月29日(水)の「アムステルダム・1(蘭)」のブログ
でも記させて頂きました。愈々、国立ゴッホ美術館に到着致しましたら、日曜日であるためか、下の写真のように、大勢の人々が入場するために列を作っていましたので、入館することを諦めました。(後略)」とぉ伝え申し上げました。そこで、2年後のそのときは、国立ゴッホ美術館に行くことが、アムステルダムに来た目的で御座いました。そのときは、日曜日でなく土曜日でした。それでもやはり大勢の人々が、入場するために列を作っていました。この美術館は、いつも混んでいるそうです。しかし乍ら、漸く国立ゴッホ美術館に入館致しました。
そして、この国立ゴッホ美術館内で撮影った絵画の写真を、下に掲載致します。去る11月1日(土) の「東ベルリン(旧・東独)」のブログ
の中段、そして、去る1月16日(金)の「一枚の絵画(ブルージュ[ベルギー])」のブログ
の下段にも記させて頂きましたように、ここでも、フラッシュを焚かなければ、写真を撮影ってもいいとのことでした。因みに、写真の左下に、前述致しましたように、昭和63年(1988年)8月27日【土】と、横向きになっていますが、日付が入っております。画像をクリック(英語:click)(もしくはタップ[英語:tap])して頂きますと、拡大致します。
自画像
下の画像の「向日葵」は日本にもありますね。以前、高額で取引されたことが新聞で紹介されていました。日本の某・企業が購入した「向日葵」と同じ、15本の「向日葵」の絵画です。因みに、去る12月6日(土)の「土へ」のブログ
に、「向日葵」畑のことを記させて頂きました。
「向日葵」
世界最大の画家の一人とされるフィンセント・ファン・ゴッホ(蘭語:Vincent Willem van Gogh)(以下、ゴッホと記させて頂きます。)は、絵画と文章の両方に才能がありました。ゴッホの手紙を整理した書簡集があります。画家では珍しい人ですね。因みに、話すことと文を書くことについての内容を記した文章があります。すなわち、話し家と作家に関する、外国の某・英文があります。
それによりますと、
話すことも文を書くことも同じくらい巧みな人はまずほとんど見られないということは、一般によく言われる事実であります。この2つの才能は、常に必ずしも共存していません。それらの才能が真っ向から対立することも珍しくないのであります。作家としてはどんなに偉大な人であろうと、話し相手になってみると、最も詰まらない人間になることもしばしばあります。また、話し合ってみると、考えられ得 る最も優れた、交際上手な人間であっても、筆を執るや否や全ての活力や熱をたちまち失ってしまうように思われる人もいます。
直訳で誠に申し分け御座いませんが、以上がその某・英文の内容で御座います。機会がありまして、宜敷ければ、この某・英文(原文)を紹介させて頂きます。
その某・英文の要旨(言いたいこと)を述べさせて頂きます。
すなわち、
話し家は話す方はいいが、書く方になると・・・。一方、作家は書く方はいいが、話す方になると・・・。ということで御座います。
2つの才能が共存することは稀有なことであり、仮に共存致しましたら、凄いことで御座いますね。
去る12月9日(火)の「阿闍世太子」のブログ
の中段、去る4月5日(日)の「歴史の業」のブログ
の中段やや下、そして、去る6月20日(土)の「不登校」のブログ
の冒頭に記させて頂きました、ボランティアで行っている、男子大学4回生(当時)のクライエント(英語:client)によりますと、某・宗教団体の総裁は、話す方はまだいいが、書く方になると・・・とのことで御座いました。
ところで、ゴッホのことは、神経科系の学会でよく発表があることを目にしたり、耳にしたりします。ゴッホのことは、病跡学(英語: pathography ・独語: Pathographie)で取り上げられるのです。因みに、病跡学とは、歴史的に傑出した人物の生涯を精神医学及び心理学的観点から研究分析し、その活動における疾病の意義を明らかにしようとする学問とされています。去る2月15日(日)の「落書きの効用」のブログ
の上段で、
「(前略)平成9年(1997年)頃から、今日迄、日本芸術療法学会員です。(後略)」とぉ伝え申し上げました。病跡学会は、この関連学会です。
御承知のように、ゴッホの「耳切り事件」につきましても、最近新説が提唱されました。但し、同じ画家であるウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(仏語: Eugène Henri Paul Gauguin)(以下、ゴーギャンと記させて頂きます。)が関わっていることは共通で御座います。因みに、ゴッホやゴーギャンは、ポスト印象派(英語: Post-Impressionism・仏語: Post-impressionnisme)の画家とされます。ポスト印象派とは、印象派の後に、仏を中心として主に1880年代から活躍した画家たちを指す便宜的な呼称であるとされています。
去る7月11日に、誠に有り難いことに、読者の方から、去る6月29日(月)の「微笑み」のブログ
のコメント1に、
「(前略)オサの健康についての状態までは、Oさんがお伝え下さったかは不明ですが、(後略)」とのコメントを頂きました。また、同じ7月11日に、
「(前略)Oさんとは、オルセー美術館展に国立新美術館と、ランチにミッドタウンに参りました(後略)」との便り(メッセージ)を頂きました。
そこで、頂いたコメントの回答をさせて頂き、更に、頂いたメッセージの返信をさせて頂きました。その中に、
「ボランティア関係の男性から誘われたものの、オルセー美術館展には参りませんでしたが、後期印象派展が開催されていましたね。確か、クロード・モネ(仏語:Claude Monet)の2つに分断された絵画である『草上の昼食』やエドゥアール・マネ(仏語: Édouard Manet)の『笛を吹く少年』が日本初公開とのことでしたね。」と記させて頂きました。御承知のように、この「草上の昼食」は、元は一つの絵画でした。絵が切れているのは、 滞納した家賃代として借家の大家に取られ、数年後、モネが取り戻した時には画面の損傷が著しかったため、クロード・モネ(以下、モネと記させて頂きます。)が2つに分断したからで御座います。
また、モネのもう一つのエピソード(英語: episode)があります。すなわち、前述のポスト印象派の画家であるポール・セザンヌ(仏語:Paul Cézanne)は、「モネは一つの目にすぎないが、それはなんという目だろうか!」と、つまり、モネはいい目をしている、との旨を語ったとのことです。但し、晩年、モネは、白底翳(ネガティブ[英語:negative]で御座いますし、お読み下さっている方々に影響をぉ与えすることの無いように、古い日本語で綴らせて頂きましたが、以前、それではわからない、と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。白内障 のことで御座います。)になります。
更に、モネのもう一つのエピソードがあります。すなわち、モネは、ジヴェルニー(仏語:Giverny)に睡蓮の池を中心とした「水の庭」を造りました。この「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、その池の上には、モネが好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けられました。因みに、去る7月04日(土)の「半夏生」のブログ
の中段、去る5月30日(土)の「寝床に植物を置く・2」のブログ
、そして、 去る10月16日(木)の「身土不二」のブログ
のそれぞれ中段やや下に、
「(前略)10月13日(月) の「芥子の花ー脳内麻薬」のブログ
の上段で、『以前、(東京都薬用植物園に、)母校の医学部の男子学生の方を招待したことが御座います。』とぉ伝え申し上げました。(後略)」と記させて頂きました。この東京都薬用植物園に、この日本風の太鼓橋が架けられている池があります。この池には、睡蓮も植えられています。
補足させていただきますと、ジヴェルニーは、パリの北西約70kmの、オート=ノルマンディー地域圏(仏語:Haute-Normandie)のウール県(仏語:Eure)に位置します。
モネは「睡蓮」の絵で有名ですね。
ポール・セザンヌ(以下、セザンヌと記させて頂きます。)に因ませていただきますと、御承知のように、セザンヌは「りんご」の絵で有名ですね。セザンヌのことは、去る10月15日(水) の「りんごの効用 」のブログ
の下段やや上に記させて頂きました。前述のゴッホやゴーギャンと同様に、ポスト印象派の画家として紹介されることが多いとのことです。
話を戻しますが、ゴッホの作品に、「ドービニーの庭」があります。御承知のように、最初に描かれた作品は、スイスのバーゼル市立美術館(Basler Kunstmuseum)に収蔵されています。そして、最初の作品を複製したと思われる作品が日本のひろしま美術館に収蔵されています。
バーゼル市立美術館の作品に見られる、「ドービニーの庭」の左下部分の「黒猫」は、ひろしま美術館の作品では一見して欠けています。これは1900年にオークション(英語:auction)に掛けられた際の写真には黒猫が確認できること、ひろしま美術館の作品の左下の該当部分がやや色合いが異なることなどから、後日エミール・シェフネッケル(Claude-Émile Schuffenecker)の筆によって「黒猫」が塗りつぶされたものと考えられています。全く違う種類の絵の具が継ぎ足されているのです。
日本のひろしま美術館に収蔵されている 「ドービニーの庭」(上記のように、作品の左下の該当部分が やや色合いが異なることが お分かり頂けると存じます)
「黒猫」は、ゴッホ自身の象徴であり、しかも、ゴッホの将来を暗示しているとされています。そして、前者の作品には「黒猫」が描かれているのに対して、後者の作品には「黒猫」が描かれていないことについてゴッホのメッセージが籠められているという説を述べている、日本の某・著書があります。すなわち、自分に対する意味を籠めて、厄介な存在は消えるべきという、ゴッホのsuicide(英語)(ネガティブ[英語:negative]で御座いますし、お読み下さっている方々に影響をぉ与えすることの無いように、日本語で綴ることを控えさせて頂きましたが、以前、それではわからない、と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。自殺のことで御座います。以下、suicideと記させて頂きます。)予告のメッセージであるというのです。ゴッホは、この「ドービニーの庭」の作品が描かれた1890年に、37歳でsuicideしています。しかし乍ら、最新科学の分析の結果、後者の作品には、当初「黒猫」が描かれていて、suicide予告の絵ではないことが分かりました。1901年4月頃、塗りつぶされたとのことです。このことにより、定説が覆されました。
では、何故、後者の作品では「黒猫」が消されたのでありましょうか。生前、ゴッホの絵画はほとんど売れませんでした。売れた絵が1枚しかなかったと言われています。前述致しましたモネが「草上の昼食」を描いた頃と同様に、ゴッホも貧しかったのです。前述の、ゴッホの死後約10年の1900年にオークションに掛けられたときにも、ゴッホの絵画はほとんど売れていなかったとのことです。そこで、当時まだ有名でなかったゴッホの絵を修復して、無名の画家が描いた綺麗な風景画として売るために、前述致しましたように、ゴッホ本人ではなくてエミール・シェフネッケルによって、不吉な「黒猫」が塗りつぶされたとのことです。
自分の死後、他人の手によって、販売目的で作品が修正されるということは、ゴッホにとりまして不本意なことであったのではないかと思われます。
さて、機会がありまして、宜敷ければ、この旅の続きを記させて頂きます。
本日も、最後迄ぉ読み頂き、誠にありがとうございました。唯々感謝。(^-^)